原因と結果について
例えば、広大無辺の宇宙空間に自分独りだけしか存在しないとしたら、その時あなたは「寂しい」と感じたり、「退屈だ」と感じるでしょうか?
退屈だから、寂しいから其処に惑星とか動植物を配置します、登場人物も何人か創ります。つまり貴方は創造主なのです。
人類を洗脳して「貴方は創造主では有りません、神に造られた被造物なのです」と洗脳する事で、何千年でも奴隷として手下として貴方をこき使う事が可能になります。
高次元の生活は、何でも思い通りになって、「退屈極まり無いなので」、この三次元に産まれて来たと主張する人が居ます。
これは矢張り正しく有りません。「退屈とは好奇心の欠如」なのです。この世でもあの世に居ても、常に好奇心で真善美を追求していれば、常にエクスタシー状態で退屈なんて有り得ません。
普通の意識体は、人間や動植物の身体や肉体に宿ります。
でも肉体に宿る事は有っても、「次は天体に宿ろうか」と言う発想には至りません。まして「次はビッグバンでも起こしてみるか」と言った発想は生じません。要するに、自分の意識レベルとは、自分の懐き得るイマジネーションレベルにきっちり留まるのです。
「日頃の行いが良くないので、雨に降られちゃったよ。」
「日頃の行い」と「起きる現実」の間に因果関係が在るのかもと、貴方は薄々気づいています。
でも確信が持てないまま、一生を終えて行きます。
はっきり言いましょう。
貴方に起きる現実は、全て貴方が「原因」なのです。
それを悟りたくなくて、貴方は「他人のせいだ」「政府のせいだ」「総理が悪い」「偶然起きた」と話を誤魔化しながら、生涯を終えていくのです。
「全ての原因は自分です。」
そうだとしたら、如何なる言い訳も通用しない事になります。
台風の進路予想が外れるのは、気象予報士のせいでは無くて、自分の心の「迷走状態」のせいなのです。
「警報サイレンが鳴らなかったせいで」山火事の犠牲者が増えた訳では有りません。
「全ては自分のせい」と考えていかないと、自分に成長も進化も無いのです。
戦争が長引くのは、「大統領のせい」では無くて、自分の心がピースフルで無いからで、全ては自分のせいなのです。
と言う事は、あらゆるネガティブ現実を引き起こしたのは、自分のネガティブ感情だったのです。
自分のネガティブ感情、即ち恐怖心や不安感が「原因で」、自分にネガティブ現実を引き寄せたのです。
自分の中に有るネガティブ感情、心配や失望や落胆や絶望が「原因となって」、貴方にネガティブ現実を体験させているのです。
だから自分が「原因」なのです。
と言う事は、ネガティブ現実の「原因である」事を止めてしまえば、もうネガティブ現実は起きなくなります。
南海トラフ地震も富士山噴火も、津波も洪水も、自分が「原因」なのだから、「原因」である事を止めてしまえば、ネガティブ現実と言う「結果」は起きようが無いのです。
つまり自分はポジティブ現実の「原因」ではあっても、ネガティブ現実の「原因」である必要は無いのです。
自分は「病気の原因」である必要は無くて、「健康の原因」で有れば良いのです。
将来に不安を抱き、心配する。それがネガティブ現実の「原因」なのです。だからその「結果として」ネガティブ現実が必ず起こります。例外は有りません。
全ての現実は、自分の意識の反映に過ぎません。「全ては自分のせい」なのであり、「起きる全ての出来事の原因は、自分自身に有るのです。」
人類の滅亡や核戦争を不可避と信じる聖書研究家が居ます。悪の世に終止符を打つには、終末預言の成就しか無いと信じ込んでいる訳です。貴方がそれに賛同したら、人類滅亡にお付き合いさせられます。
自分は「世の終わりの原因」なのか、それとも「世の始まりの原因」なのか?
貴方は「原因」なの?それとも「結果」なの?人類が滅亡したのは、「アイツのせいだ」「アイツが悪い」、結局「他人のせい」で、貴方の人生は終わるのですね?
「全ては自分のせいなのです。」
「全ての原因は自分に有る。」
言い訳は通用しません。被害者になるのも、犠牲者になるのも、「全て自分のせい」なのです。
ネガティブ現実の原因であるのを止めたなら、ネガティブ現実は起きようが有りません。