光に「意識」は有るのか?ーーー 「一過性の愛と永遠の愛」
第一章 「愛の分量」
「永遠の愛」を誓いますと言ってみた処で、人の寿命はせいぜい100年足らずだから、どこが永遠やねんと言うことになります。
寿命と愛の分量は多分正比例するのでしょう。
つまり短命な生き物の愛の分量は少ない。愛の分量が少ないから、奪い合い殺し合う。「愛してます」、「一過性の愛」は今日も愛のセリフに事欠かない。
確かに地上の愛には持続性がない。
人間界の愛は一過性で一時的である。
もしもその愛が本物であるとするならば、そもそも別れなんて存在しない。
この三次元物理空間では、出合いと別れはセットになっているので、この世界において、愛は一過性であり、持続可能でない。だから人間人類の「愛のセリフ」はどこか空々しく嘘くさい。
言い換えると、人間界や地上界に与えられた愛の分量は驚く程少ない。それ故にこそ平気で人を殺せるし騙せる訳です。
だからもしも永遠の愛が欲しいなら、自分の寿命を永遠にする必要がある。
まとめると、地獄の住人の寿命は短く、天の住人の寿命は長い。
だから人間を卒業したら地獄に行かないで、天の住人になるのが本当は正しい。逆に言うと、悪事に耽ってもしょうが無いのである。だが実際、あいも変わらず地獄に行く人が跡を絶たない。
悪を為すことが習慣化し、常習化してしまい、堕落というベクトルを方向転換できない。これは「堕落のエントロピー」と言えるでしょう。
一旦見失われた愛は再発見が難しい。
人類史は殺し合いはデキても、生かし合いが出来ない。愛の絶対量が不足しているからです。
さて、人類は愛の社会を構築出来るのだろうか?それとも騙し合い、いがみ合うのがお似合いなのか。
第ニ章 「光に意識は有るのか?」
光は電磁波の一種で、主に可視光のことを指します。そして光は波でもあり粒子でもあると言った二面性を持つ。だから、光は物質に影響を与えられる訳です。と言うか、物質はそもそも「光の一種」なんです。それをこれは物質でこれは電磁波ですと分解し区分して考えるから、人間の理解力に限界が生じる訳です。元来この世もあの世も光と言う「たった一つのもの」なのです。
それでこの光は一秒間に30万kmしか進みません。亀よりのろいです。広大な宇宙を移動するには遅過ぎます。だからもっと速い移動手段が発見される。
さて、光は波でもあり粒でもある。つまり、意識でもあり物質でもある。だが、光は一つの空間に無限に「重なり合う」ことが出来るので、有限と無限の両方で有り得る訳です。それゆえ「人間と言う意識体」も「無限の豊かさ」を享受することが可能になるのです。
人間の肉体は物質なので、同じ空間に重なり合って存在出来ませんが、意識は一つの空間に幾らでも重複して存在しうるゆえに、「一人一宇宙」が可能な訳です。
光は波であり粒でもあり、エネルギーであり電磁波でもある。物理学では此処までが限界でその先には行けません。其の先は単に「謎」であり「理解不能」と諦める他有りません。
だから、その先は私が勝手に補正し補強するしか無い。
光とは、電磁波であり可視光であり、意識であり、エネルギーであり愛でもある。光が生命エネルギーだから、人間もその生命エネルギーの一種でありその故に「生きている」訳です。
そしてこの宇宙は「たった一つの生命エネルギー」であり、その一つのエネルギーが多種多様な性質や形態を採って「多様性を満喫している」訳です。つまり宇宙は「一即多」なんです。
この宇宙が、創造主と被造物の二つから成り立っていたら可笑しな話です。だからこの際そう言う二流の世界観から卒業しないといけません。
つまり、宇宙は最初から最後まで「たった一つの生命エネルギー」でしかない。その生命エネルギーが意識であり愛な訳です。
人間はその生命エネルギーの噴出口に自分で蓋をして、エネルギーの出口を狭めることで、自ら生き地獄を創ったり、苦労や病を体験できる訳です。
それでこの三次元空間はもう飽きた、人間人類はもういいやと言う人たちは、高次元と言う新たなステージを愉しむことにしました。
それを神的人類と呼んだりします。それはちょっと練習したら超能力が開花しましたと言った甘いものでは無くて、自分の意識体系の全体を変えていく日々地道な思考習慣の変更が、一定以上のレベルに達しないと次元は上昇しません。
人類が集団意識として世界情勢を気にしている段階では、次元上昇など有りえません。
さて、この三次元物理空間に生を受けた人間の意識は、宇宙の根源的エネルギーの全能性とつながることで、自らが創造主の一部として、思い通りの人生を満喫して愉しむことが出来ます。
つまり、自分が意識として「願望」し、その願望を宇宙の全能エネルギーが「叶えて愉しむ」訳です。
即ち「願って愉しく」「叶えて愉しい」ウインウインの関係です。だから人生も神生もこの上ない喜びでしか有りません。