「人類の起源」論争
人類は生物進化の産物である。生物が進化したとか言い出したのは、せいぜいこの200年、つい最近の話である。
それまでは聖書の記述を信じて、人間は神に創造されたとするのが通説と言うか一般常識だった。
創られたのか、自然に出来たのか?つまり、人工的かナチュラルか?片方の説に組みして口角泡を飛ばすのも一興だが、どっちでもいいとも言えるし、ひょっとしたらどっちも違うのかもしれない。
神は遺伝子操作により人類を製作した。二重螺旋構造にしたのは、神の配剤だろうか、それともそれが今彼に出来る精一杯だったのだろうか?三重螺旋と言うのは難しいのだろうか?それとも何か不具合が起きやすいのか?
精神は肉体には成れない。いや肉体になる必要性がない。では逆に肉体は精神へと進化可能だろうか?
人形使いが人形に使われたら其れはそれで疲れる。三次元に住む漫画家は、自分の望む思い通りのストーリー展開を二次元世界に展開出来る。だから二次元の主人公や登場人物は、自由に見えて実は全く自由でない。
人間は被造物に留まる限り幸せになれないし、自由でもない。つまり、人間の自由を欲する欲求は最終的には、被造物からの脱却以外に無い。
被造物とは輪廻の円環を走り続けるハムスターでしかない。だから人生は苦である。安楽は人生の外に有る。円環の向こう側に在る。向こう側とは、内奥のことである。宇宙に光が一切無ければ、あらゆる生物や生命体の姿や形は無意味化する。
逆に闇が一切無いならこれまた姿も形も一切機能しない。つまり人間も生物も、光と闇の中間で中途半端に途中経過として生きているに過ぎない。
この世の一生はたった百年でしかない。宇宙と比べてあまりに短い。だからひょっとしたら、「死とはまやかしに過ぎない」のかもしれない。人間とは自分が死ぬと言う錯覚をインプットされたヒト型ロボットだったりして。
つまり制限とか制約と言う概念存在が人間なのである。だから寿命も有限性のゆえに短めでないと困る。その為に自分が死ぬと言う錯覚に陥る必要がある。つまり永遠に長いライフスパンを小間切れに切り刻んでこれが私の一生ですと思い込む。そうすることで色んな人生を体験できるメリットもある。
被造物はどこまで行っても被造物でしかない。つまり被造物が創造主へと進化することは不可能である。だとしたら人間人類は永遠に不幸であり続けるしかない。主人公は、漫画家様に主人公にしていただきさぞかし幸せなことでしょう。本当にそうだろうか?それは幸せとは言わない。幸せなのは、主人公では無くて恐らく漫画家の方である。
造られし者から創りし者へ、そのパラダイムシフトは果たして可能だろうか?
いや被造物のままで居た方が幸せだよ。色んな意見があります。結局その人がどの説を採用したいかです。
「科学と言う迷信」と「信仰と言う盲信」がせめぎ合って、人類は無知蒙昧をエンジョイできる。答えは有るようで無い。真実とは仮採用された一過性の自説に頑なに固執することである。
退化を進化と勘違いする意識体にいかなる説教も無駄だろう。進化と退化は同時並行的に起きている。あらゆる意識体は進化か退化の旅の途上にある。堕落天使は堕落の果てに結局どうなったのか?その先を人は知らない。
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