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記憶と忘却
中間テストや期末テストが苦痛だと嘆く人がいる。
人間の記憶容量は限られているが、期末テストの範囲はかなり限定されている。
要はテスト勉強をするかしないかだけである。
するのであれば集中してやるしかない。つまり集中力が求められる。
その為には神経伝達物質の材料たるカルシウムやマグネシウムを摂取可能な家庭である必要がある。
人間の記憶力は年月を経て風化劣化していく。
楽しい思い出ばかりとは限らないからである。
忘れてしまいたい忌まわしい記憶を選択的に消去出来れば一番いい。
だがそうなると「記憶」とは何かを根本的に問い直す必要も出て来る。
前世の記憶が突然甦(よみがえ)り、切腹させられて腹切った時は痛かったなあと腹をさする、そんな記憶は果たして必要なのか?
年取って物忘れが酷くなるのは記憶力に頼らない生き方をしましょうと言う事なのであろう。
学習や勉強が忘却により無意味化したと嘆く必要もない。
人間の記憶力とは、基本的に一時的記憶である。だからこそ年月と共に記憶は薄れてゆく。
年取ってボケたと嘆く必要は無くて、知識や情報はさほど重要では無く、より重要な物が有る事に気づけと言う事なのだろう。
忌まわしい記憶は捨て、いい思い出だけを選択的に残す、そう言う記憶の取捨選択は果たして可能なのだろうか?
単に覚えているから記憶したい物だけを覚えておく。
そう言う記憶と忘却を変幻自在に扱い得る自分へと脱皮する時期が来たのかもしれない。