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人間的な生き方、 「神的な生き方とは?」

あの人って、感情むき出し、エゴむき出し、欲望むき出しに生きてます。

「人間だもの」

「人間だもの」は便利な言葉で、あらゆる言い訳に使えます。ついカッとなって人を刺しちゃいました。人間だもの、しゃあ無いわ。

人間は生存競争の過程で、自我(エゴ)を身につけました。つまり「欲望と感情」で生き抜く訳です。食うか食われかの世界で、油断してたら食べられてしまいます。

こうして長らく食欲や性欲や睡眠欲、喜怒哀楽の感情をメインに生きて来ました。

だから「人間的」とは、感情と欲望が「条件反射的」に発動される状態です。

では「人間的」じゃ無くて、「神的な」生き方ってどういう生き方なんでしょうか?

感情むき出しとは、主にネガティブな感情になります。怒りとか憎しみとか、悲嘆とか絶望とか。

分かり易く言うと、喜怒哀楽の内の怒と哀を条件反射的に発動させるのを「人間的」と言います。

それでは「神的」とは、どういう感情をメインに生きているのか?怒りや悲しみはゼロでは有りません。ただ常用しません。

人間と神様の違いってたった其れだけの違いです。

つまり人間は起きた現実にただ条件反射的に泣いたり喚(わめ)いたりします。しかもその際主にネガティブ感情を表出します。

一方、神様たちは条件反射的では無くて、自発的に感情を表出します。つまり現実に対する条件反射じゃ無くて、自らが楽しいから微笑む。そして表出する感情はポジティブ感情を基本にして、稀にネガティブ感情になります。神様もまだ修行中だからネガティブ感情はゼロじゃ無い。ただネガティブ感情に浸らないので、直ぐに切り替えられます。

人間はネガティブ感情に長い間浸り切り、なかなか抜け出せません。

つまり人間は、神様たちと違って、諸々の感情のメカニズムに無知なのです。

神様たちは何故ネガティブ感情に長らく浸らないのか?そうする事にあまりメリットを感じないからです。

人間は、いまだ「憎しみとは何か、嫉妬とは何か?」と言った、それらの感情の発生メカニズムについて理解が不十分なのです。ただ条件反射的にそれらの感情を発動させています。

だからその発動した感情が、ネガティブ感情かポジティブ感情かの区別さえも曖昧です。

神様たちは、ネガティブかポジティブか瞬時に判ります。「ネガティブを排除」するのでは無く、その都度ポジティブの方を選択しているのです。

人間は肉体を持ってこの物質世界に産まれる際に、自分の「精神性」をすっかり失念しました。だから自分とは肉体なのかな、物質なのかなと勘違いしたりします。

故に「神的に生きる」とは、自分が「精神的存在」なのだと自覚して生きる、たった其れだけの事なのです。

人間だけが自分の精神性を疑い、神様も宇宙人も自分たちは「精神的存在」だと自覚しています。と言うか存在イコール精神なのです。宇宙イコール精神イコール意識なんです。動物にも植物にも意識があり、精神性を有しています。自分の意識レベルが低いと、霊も宇宙人も視えないし、植物や動物と会話も出来ません。

そう言う訳で、人間だもの人間的でいいじゃないかと言った言い訳がましい生き方で一生を終えたい人と、「神的に」生きた方がより楽しいかもと言う二者択一に直面します。

人間って基本「苦しい事のみ多かりき」です。一方、神様や宇宙人は「楽しい事しか」やりません。どっちがいいのか、各自好きな方を選んで下さい。

人間の肉体内に七つのチャクラが有り、これらを自我(エゴ)は取り仕切っていると錯覚しています。本当はハイヤーセルフと分離する事で、エゴはこの肉体を有して、物質世界を体験出来ています。

人間的イコール「エゴの自分」と考えるならば、「神的に生きる」とはハイヤーセルフとしっかり繋(つな)がった生き方と言う事になります。

欲望と感情と精神についてのお話でした。


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