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他人とは異物である

自分にとって、世界とは違和感であり、他人とは異物である。

他人は自分でない故に、正に他人なのである。
他人に対して、一体感や親和性を覚える時、人はそれを「愛」と呼ぶ。
異物と感じて来たら、別れるのが正しい。
自分と世界の関係を「適合もしくは適応」と考えてしまうと、そこに「不適応感」が生じて、異和感を覚えて苦しくなる。
だから「適応適合モデル」は採用しない方がいい。
適者生存をモデルに世界観を構築してしまうと、この「異和感」に悩まされることになる。

そうでは無くて、より適切な世界観モデルとは、自分と世界の関係を自業自得論として構築するやり方である。

つまり、世界は自身が生み出したのであって、適応すべき対象などでは無い。

世界が自分より先に既に存在したという錯誤が、この誤った世界観を生み出してしまった。

最初に自身有りき、これが正しい世界観なのであり、その事に気づく為に意識は悠久の年月を必要とする。

世界が自分より先に既に存在したという思い込みこそが、「被造物的発想」だったのである。

世界は自身が生み出した以上、そこに違和感など生じる筈は無く、世界イコール自分自身という感覚を持つ事が正常な在り方なのである。

つまり、自分の中に異物感や異和感が有ると、それを敵視し攻撃し、炎症が起きる。
身体のアレルギー症状とはこの異物感から来る攻撃性、その結果としての疲労感に他ならない。

それ故、身体の炎症とは、言い換えれば敵視であり「愛の欠如」なのである。
世界や宇宙を一体感へと持って行けない事で、実は精神として病んでいる。

だから違和感異物感を一体感へと昇華していく事が求められて来る。

敵視と敵対心が蔓延すると、心と世界はカオスになり地獄になる。
地獄とは何で、天国とはどういう状態性を指すのか?
これが悠久の年月を費やし魂たちが追い求めて来た問いと答えである。

異物感から一体感への移行が思いの他難しいから、人は調和よりカオスを選びがちである。
宇宙を包み込んでいく無尽蔵の愛が無いと、戦争だらけの歴史になってしまう。
争いとかカオスは、意識や精神の堕落形態なのである。

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