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神の見つけ方
人間の聴覚で聴き取れる周波数帯は20〜20000Hzです。だがコウモリは400kHzの音を聴き取ることが出来ます。この時、人間の耳に聴き取れない超音波なんてものは存在しないと言い張る人は相当なお馬鹿ですよね。
人間の肉眼で見える波長は、380〜770ナノメートルに限定されています。また人間の両目は前方しか向いてないから、背後から近づく不審者に気づきません。人間は何故そのような人体構造を採用したのでしょうか?
何が言いたいのかと言うと、人間の知覚領域は、ある特定の周波数帯のみに絞り込んで、その「限定的知覚」でもって認識し得る物しか認識しようとしないと言う生き方を採用した「極めて珍奇な生物」なのです。
今現在、人類を「三次元空間だけを知覚しうる生き物」と定義することが出来きるでしょう。
別の言い方をすれば、三次元と五次元の「両方を知覚」し得ない生き物なのです。自分たちを可視光線と可聴域に限定した意識存在と定義した訳です。
色んな経緯があって、「霊の見え無い自分」にしてしまった訳です。
逆に言うと、生まれつき普通に霊の見える自分でも構わないんです。自分がそう在ることを集合意識としても、自分個人としても許可したらそうなります。
さて、霊の見え無い自分と言う存在形態を採用した人類は、普通に「神も霊も見え無い」ので、無神論者になりがちです。
それで、偶像を崇拝したり、肉眼で知覚可能な教祖さまを崇めたり、統治の道具たる宗教に嵌(はま)ったりしがちです。
霊能力無き人間に生まれて無宗教や無神論に陥ってしまうのは、至極当然だしやむを得ないが、この世に産まれた大チャンスを物にするには、そうした在り来りの生涯では情け無い。
ほんの少しの知性が有りさえすれば、容易く神を見つけられます。
神は自身の姿を3Dホログラムでいちいち映像化して見せる必然性を感じません。自分と言う存在をヴィジブルたらしめる必要性とは何でしょうか?
神と神々は違います。神々と言うのは、竈(かまど)の神だったり、トイレの神様だったり、天に住む無数の能力者たちです。
一方で、全知全能存在と言うのを「唯一者」とか「宇宙」とか「宇宙エネルギー」とか「神」と呼んだりします。
教祖様を含めてヴィジブルな存在は大した神さまでは有りません。
例えば、存在を能力別に並べてみると、無能、半能、全能と別けられます。人間はこれまで自身を無知無能と定義して来ました。自分の全能性を全力で否定して来たのです。
「神とは自分のことであった。」そう言った気づきは、何時起きるのでしょうか?外界に神を探し求めている限り駄目ですよね。
「宗教も要りません、神も要りません。」それは人間の分際で口にするべきセリフでしょうか?恐らく自分が人間以上の存在になって初めて言えるセリフかもしれません。
自分が宇宙だったり、神だったりする人は、もう既に人間では無いのかもしれません。
もしも自分が無能感では無くて、全能感や全知感を抱きうるとしたら、神を見つける日も遠くないはずです。
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