ネガからポジへ
昔のカメラはフィルムを「ネガ」と言っていた。現像とはネガを反転させ写真にすることだった。
DNAの情報はRNAを使って転写する。
さてあなたが鏡に自分の姿を映す時、鏡の表面が歪んでいれば、あなたの姿は正しく写らない。その時あなたは鏡に腹を立てたりするのだろうか?
神様は天地を創造したが、天には快を地には苦しみを与えることにした。だから地上界の人間や動物は奪い合い殺し合い、恐れ憎みディスり合う。
映画を観せれば人間はミラーニューロンを使ってその世界にのめり込んでいく。スクリーンが大好き過ぎる。
天と地の真ん中に鏡を置いたら、果たして地上は天の快や喜びを写し出せるだろうか?
地上は基本ネガティブである。ラッキーは稀にしか訪れない。不運や不幸は日常茶飯事なのに。それで人はテレビのニュースで日常茶飯事の悲劇と悲惨を見聞きして自分だけが不幸じゃ無いんだと安堵する。
こうした三次元の不幸盛り沢山世界に居ながら、ポジティブオンリーな自分に変えていく。それを修行とか生活習慣とか訓練と言う。
そもそも人間は普通に生活してたらネガティブなので、ポジティブが何なのか解らない。未来をネガティブに予想しておけば、高確率で当たる。
未来を当てるのでは無くて、懸念するで無く、悲観もせず、不安も一切抱かず、結果の如何に関係なく、良い結果のみを確信してワクワクしながら待つ、そんな事が人間の精神構造上果たして可能だろうか?
つまり人間は期待過剰とそれに続く落胆や失望をセット購入しているから、落胆しないで期待と希望だけを抱き続ける訓練など受けていない。
落胆、失望、絶望と言ったネガティブを自分の心理から一掃してしまったらもう人間じゃ無くなるのかもしれない。絶望って何ですかとETに聞かれても説明が難しい。予の辞書に落胆と言う文字は無い。そんな人果たしているのか?
人は天から地に落ちる際に、ネガティブを装着したのである。だから天に還る時はこの装着したネガティブを外せばよい。鏡を使って反転させてもいい。
ネガティブとは「否定」のことです。つまり他人とか世間をディスる、自分を嫌悪する、過去を悔やむ、未来を怖れる、この多岐にわたる否定は地にしっかり根を下ろし、もはや根絶は不可能に思えてくる。
否定を反転させれば肯定だから、全てを肯定し、否定を一掃して生きればいいのであろう。全てを許し、全てを認めていく。これは無謀な試みだろうか?全てが自分を起点に発動する。だから自分の発したものを全て受け取る。ポジティブを発したらポジティブしか受け取らない。人間が地上でネガティブと出会うのは実は自分がネガティブを発したからであった。
自分の内面からネガティブを一掃できれば、ネガティブな外界を受け取るはずが無い。その外界とは、快だけになっていて、そこは天国なのである。
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