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人間とクジラの違い
平素よりお世話になっております。高島です。
始まったこともいってませんでしたがツアーが終わりました。
「BARI BARI ROCK TOUR」ファイナル、共演いただいた @KYUSO_NEKOKAMI の皆さま、ありがとうございました。
— 高島 一航 / MOSHIMO Drs. (@IkkoTakashima) April 19, 2024
僕はヤンキーじゃないです。仲良くしてね。
📸 @teru_ttm pic.twitter.com/7mh0yI0CDt
おっきなフェスにも出演してきました。
『ARABAKI ROCK FEST.24』、初出演でした。
— 高島 一航 / MOSHIMO Drs. (@IkkoTakashima) April 27, 2024
ご来場いただいた皆さま、ありがとうございました。
📸 @teru_ttm pic.twitter.com/Ionjs9Yfys
毎度毎度、力いっぱい一生懸命にドラムを叩いているのでスティックが折れるのは日常茶飯事、ヘッド(皮)が破れるのも容認、しかしこの数ヶ月でシンバルが三枚も割れるとは思いませんでした。
ハイハットが割れ、ライドが砕け散り、クラッシュが旅立った。しかしロックとは破壊と再生を繰り返し個を際立たせるアートフォーム。
ドラッグに溺れ、一時は終幕かと思われたエアロスミスも今やレジェンド。経済的にも自己破壊の一途を辿るばかりですが、未練や後悔は一切ありません。
毎月毎月、一生懸命タトゥーも入れています。やってみて初めて気が付きましたが背中って自分では見えないんですね。サボらずにいけば年内には施工完了しそうなので真面目に頑張ろうと思っています。
何者か
言葉は厄介で、読むスピードは人それぞれだし、口に出すならタイミング・抑揚によって意図しない解釈をされる可能性もある。
それを簡素化できるのがデザイン。危機を想起させるには赤を使うのが最も有効で、おそらく人間の血液の由来であるから全世界共通で使える。
音(≠音楽)もその一端で、サイレンや警報、たとえば緊急地震速報のアレも音楽理論的には「3rdを#9thの半音でぶつけることで緊張感を生ませている」と説明できる。
つまり“コミュニケートする”ことを前段に置いてそれを省略したり、逆にそれを引き延ばしたりできるツールがデザインや音にあたる。
先日初めて足を運んだバーで開口一番「ライブ終わりかなにかですか?」と聞かれたのも自分のデザイン(タトゥーとか)から来るものだし、「いやぁ、実は自分音楽やってましてー」の1ターン分の会話を省略できたのは確実にデザインの勝利、といえる。
逆にいえば「いちいち口で説明しないといけないことをデザイン・音でやるのは禁忌・タブー。」ということでいい。もし伝わっていないとして、その場合は提供者(この場合は僕)の責任なので安心してください。
境界を消す
砕け散ったシンバルたち、メーカーに問い合わせるも資源物資の影響なのか在庫切れ、次回入荷予定は数ヶ月後、とのことだった。
結果的にはクラッシュをハイハットに使ったり、ライドをクラッシュにしたり、本来の用途とは違う使い方で解決できた。
上京後、焼肉屋さんに入って「え、肉ってハサミで切っていいんだ…」と驚いたことをよく覚えている。それまで自分が育った環境では「食材を切る=包丁」の認識しかなかったが、「ハサミ」「包丁」のクラスから一つ上の「物を切る」階層でみれば何もおかしなことはない。
シンバルも同じことがいえて「ライド」「クラッシュ」から「シンバル」まで階層を上がれば問題はない。音質さえ担保されてれば「シンバル」からなにを選んだって構わないはずだ。
上述したデザイン・音。これの副作用の一つに「境界」がある。「ハサミ」「包丁」「ライド」「クラッシュ」といくつもの境界があって、これは意識しなくていいように綺麗にマスクされている。むしろ無意識でいられるのデザインがコミュニケートの中で勝ち残れたという証左にもあたる。
これは明確に自分が「負けた」と初めて認識したことで、小学校の卒業文集に「将来の夢:野球選手」と書いてしまった。これは同級生や保護者の目、いわゆる同調圧力に負けて書いた嘘で、本当は野球選手なんかになりたいわけでもなんでもなかった。
じゃあサッカー選手なのか公務員なのかミュージシャンなのか、というと何者にもなりたくなかった。
いつの間にか校庭に出現した境界の一つにすっぽりと収まってしまう。それは当時の自分には怖いことだったし、なにより理解すらしていないわけだから何食わぬ顔でそこにいる資格すら自分にはない、と思っていた。
数年後、高校生になりこれまた突然に「来週中に進路決めろ」といわれた時も激しく困惑した。昨日までみんな楽しく馬鹿な遊びしてたやん。なのでこれはおそらく成熟・未熟ではなく本質的な自分の性格なんだと思う。
いかにして境界を消し去るか。ファーストステップは認知すること。
僕が少年誌の「夢!友情!仲間!」みたいな世界観に一切惹かれないのはこの認知がないからだ。
「オレたちは同じ夢を目指して!」ちがう、我々はみな一人一人違う人間だ。集団でみんな同じだと思い込むから個が見えない。
見えない縄跳びは跳べないし、人間とクジラの違いはなんとなくしかわからない。
それぞれが違うこと、これをまずを認知しないと結果はまったく違うところに落ちてしまう。
結局、いま現在も境界が怖いし自分にとってはとても気味の悪いもの。そこに収まることで言わなくていいこともきっと言うだろうし、その責任もとれない。見えなくなるものも多いだろう。
一方「ドラマー」「バンドマン」「タトゥーだらけで草w」とどのように呼称されてもまったく気にはならない。が、そのどれもを自称するのは違和感がある。
腹を決めてミュージシャンです、と名乗ってはいるがきっと本当のミュージシャンはシンバルを割りにいったりはしないだろう。
世相を見ているとみな何者かになりたいらしい。
僕は絶対に何者にもなりたくはない、と本気で思っている。
以上になります。
それでは引き続きどうぞよろしくお願いいたします