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アメリカ旅、自己に対する考察。
「過去には用がない」と言えども、そこからでしか語ることは出来ないので。
生きるということは「寝る、食う、楽しむ」ことで、それこそが皆が目指す幸せである、と教わり信じてここまで歩んできました。
が、時代の変化なのか時が経つにつれて定義は「取りあえず死なない」レベルまでどんどん狭くなってきて。昨年は自殺者が何人出ましたか、理解しがたい悲しい事がどれだけ起きましたか。
例に漏れず、僕もそう。
かんたんにいうと観劇したり、レジャーを楽しむ、より「やらねばならない事・やるべき事」次々に押し寄せてくる。多勢に無勢、暖簾に腕押し。どこまで行っても満たされない、終わりはない。
それでも僕は芸事への従事を選んでいる。
原理として、辞められないのは演奏しなかったり音に触れていないと露骨に体調が悪くなる。息苦しくなって恐ろしい発想ばかり浮かんでくる。今となってはこの身体になってよかった、と感謝しかしてない。
「音楽がないと生きていけない」という人へ。
でも息してるじゃん、それで生きていることになるんだよ、俺も悲しいんだけれど。
音楽は無駄である。
今まさに、身を投げようとする人を止める力なんかない。
飢餓を解決することもできなければ、振り上げられた狂気を抑える力はない。
無駄であるからこそ、変わってしまった生活の+αであるからこそ、芸術はどんどん本質に近付いていく。世の中に浸透していける。
偉大な哲学者だって、大半は親のスネを齧って暮らしたニートだった。それでも現代に生きている僕はヴィトゲンシュタインが残した言葉に奮い立たされる。
「お前がいいと思ったら、それでいいのだ。
どうせ他者に何と言われようとも、事実が変わるわけではない。」
と。
ifがあれば。
もしあの時あんな事が起きなければ、あんなことを僕が言わなければ。
こんな風なことを思わなくても済んだかもしれないもしくは、
こんなに辛い思いをしなくても済んだかもしれない。
出会いさえしなければ。これぐらい、僕だって当然感じる。
これは屈辱からか、それとも復讐なのか。
どんなに知識を詰め込んで世の中を分かった風になっても、理論武装して強くなった気がしても
眼前に現れる美の圧倒的な力に屈服してしまった。
面食らい、挙句「こっちだよ」と呼び戻されてしまった。
だからもう諦めよう。
どんなに離れようとしても、あっちが僕を逃がしてはくれない。
以上が昨年のフィレンツェから始まり、アメリカで終始した旅の所感でした。
おそらく皆がそうであるのか、もしくはただの通過儀礼か。
無視され続けることとか、明りが灯されないのなら自ら歩み寄ろうか、とか当然迷いがある。
先々週。
「もういい歳なんやけん、少しは控えなさいよ…。」
泥酔して帰った僕を見て呆れたように母は言った。
僕はヘラヘラ笑った。
業を煮やした人が僕に「お前も行け」と言い続ける。
「こっちに来い」とも言う。
もう、ダメでいい。
ちゃんともしない。
分からないことは分からない、イヤなことはイヤって言う。
徹底的に無駄を省く。音楽は時間の芸術、その為に。
もっと鋭角の際で踊ろう。もう二度と、絶対に落ちないし。
高く飛べるようレバレッジかけていきますので見てて下さいね。