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「夜に遊ぶ」からNYではネコと呼ばれてるらしい。

平素よりお世話になっております。高島です。

我々のような日陰者(あえてこういった表現をします)が、道端で石ころを投げられるのはある意味慣れっこで、いつだって悪者で構わない。
汗だくで清潔感に欠ける上、やってることもよく分からない。一般的とはとても言い難い服装で街をうろつく。

だれに頼まれた訳でもなく、夜な夜な地下に潜って表現欲求を満たし「利益」を得ようとする。利益とは金銭に限らず、だれかの鬱憤を晴らすことになり得た経験や、偶然通りかかった人から貰う応援の声など。

なにより、これは勝手に自分が始めたことだ。
繰り返すが、だれかに頼まれた訳では決してない。だから自分にとって最重要項目は後者、「誰かのためになる」方の利益だ。

今のこの時代、形に残らない「音楽」を生業に、二本の木の棒を人前で振り回し「だれかの世界をどうにかしてやろう」というのは、どう考えてもイカれてるとしか思えない。

ここまで生きてきた世相を思い返すと、巨大な建造物に飛行機が突っ込んでいったり、天災によってたくさんの命が消えてしまったり、そういう哀しいことから目を背けること自体が自分は苦手だった。

その都度、自分も誰かのためになりたい、と思った。
が、音楽を聴いてパフォーマンスをして空腹が満たされる訳でも、暖かい毛布を手渡せる訳ではない。ウイルスを一掃することもない。
音楽に価値がない、という意味では一切ない。どうしても順番がある。

さまざまな論調がここにはあるが、自分は本質を絶対に逃したくない。そういう意味で自分は「イカれてる」し、「日陰者」で一向に構わない。

通説によると蝉は地中で3~4年を過ごし、パートナーとマッチングすべく地上で飛び回って、一週間で寿命を果たす。

自分にも似たようなところがあって、密室で自身と向き合い続ける無限の時間を過ごし、ようやっと舞台に這い上がってきた。
そこではそんな恰好では寒かろう、カッコもつかんだろう、と音を整頓して明かりで照らしてくれて、舞台を設営してくれてる人たちがいる。

日陰者の自分でも時たま輝いてみえるのは、間違いなくその「他者」の存在、しかも数えきれないほどたくさんの人々のサポートによるものだ。
当然その中には「お客さん」と呼ばれる人たちもいる。これも自分が逃したくない本質の一つでもあるのだけれど。

だからそういった人たちが石を投げられてるのは看過できない、というか赦せないところがあります。
正義の反対は悪、ではなく「別の正義」、複雑に絡み合ったいろんな事情があるでしょう。が、自分としてはこういった考えです。

以上になります。
引き続きどうぞよろしくお願いいたします。


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