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ブランド品を買い漁る豚ども

平素よりお世話になっております。高島です。

そういえば。
先日僕宛てにお便りをいただきました。お手紙が数通とお菓子、そしてスターバックスのギフト券まで。事務所に届いていたそれによると、日ごろから応援しています、僕のこの駄文も生き方のヒントがあったり力になっています、と。
ライブで使い果たせなかった余剰のパワーをただ闇雲にキーボードに叩きつける、僕の趣味の範疇を超えない行動もなにか人の役に立っているのだ、と思うと非常に心強いです。こちらの方こそ感謝しています。

残暑を感じる午前、愛車のフリードに乗り込み某金融機関へと出向きました。音楽機材導入を目的に融資を受けるためです。
ウーン、と自動ドアが開き全身に冷気を浴びます。突如として刺青だらけの男が現れ、行内に一気に走る緊張感。自身のことを説明するにはこっちの方が断然わかりやすいだろう、とあえての半袖です。

「…ご用件は?」スッと警備員さんが現れて短く僕に問いかけます。かくかくしかじか、と説明すると三階へと案内されました。警備員さんと共に乗り込んだエレベーターの壁には「反社会的勢力の排除」やら「東京都暴力団排除条例」やらと掲げられています。警備員さん、さぞかし気まずい思いをしたでしょう。

帰り道中、自動再生に設定していたYouTubeから岡田斗司夫(プロデューサー・評論家・文筆家)氏の動画音声が流れてきました。氏曰く「あのですねぇ~、この世の男の八割は浮気するんです、じゃあ残りの二割は善人か、というとですね~、これはただの“人嫌い”なんですよぉ、アハハァ!」と。

人嫌い。なかなか聞きなじみのない言葉なので路肩に車を停めて調べてみると

『「人嫌い」という言葉は、一般的に、他の人々との社会的な交流や対人関係を避けたり、嫌がったりする傾向を指す言葉です。人嫌いの人は、他人との接触を避けることが多く、孤立することがあります。』

https://chat.openai.com

とありました。

色恋の面であまり移り気のしないのが軽い自慢で、これは今に始まったことではないけれど僕は友達もあまり多くない。定期的に飲みにいく友達も二十年近く付き合ってきた昔馴染みばかりだし、誇張抜きにこの三年で連絡先を交換した人数は片手で余る。

これがどれぐらい深刻かというと僕はドラマー。ミュージシャンとして交友関係を拡げ、あらゆる所に行って演奏をし、対価を得る。対人関係において消極的である僕はかなりヤヴァい。

もちろん危機意識は持っていたので、交流会と呼ばれるものには夜な夜な顔を出し見知らぬ人々と酒を酌み交わす。しかし明くる朝には貰った名刺と顔が一致しない。
昼間に水道橋のコワーキングスペースで行われたそれは思いっきり仮想通貨のマルチ勧誘の会だった。ブランド品を身に着けホクホク顔のおばさまたちの姿は今も忘れない。

炎天下のなか無条件に水を欲するのは生存本能によるものであるが、それを当てはめると俺は生きようとしていないのか、と思う。本当に演奏家として「生きる」と思えば生存本能が働き、まともな営業活動でもしているはず。ただの怠惰を疑う目線もあるが僕はそうは思わない。この身体も頭もそこまでバカじゃなかろう。たぶん。

ではここで「生きる」を考えてみる。
僕の大好きなChatGPTに聞いてみました(ChatGPTとは高度なAI技術によって、人間のように自然な会話ができるAIチャットサービス)。

「生きる」という言葉は、物理的に存在し、活動し続けることを指しますが、その意味は個人や文化によって異なることがあります。
~(中略)~
総合的に言えば、生きるとは、生物学的な生存だけでなく、感情、思考、社会的なつながり、精神的な目標など、多くの要素が複雑に絡み合ったものであり、人々の生活や文化によって異なる意味や価値が付与されることがあります。

https://chat.openai.com

口に出すのも憚られるようなホラー映画。過激さへの衝動は雪だるま式に増え、さらに猟奇的な動画を求めインターネットを徘徊する。
その多くを見ているとふと「生きる」「死ぬ」の境目があいまいになってくることがあります。

遡ること二十年ほど前、父の経営する会社が倒産した。中学生だった当時の僕にはわかり得なかったことだがこの事件は父の「社会的な死」と呼んでもいい。

当時はパソコン通信・インターネットの黎明期、導入する企業もちらほらとあったように思う。パソコンってこんなにすげーんだよ、というテレビCMも見た気がする。

しかし父は頑なに紙資料にこだわった。典型的な九州の男で、彼の性格からみるに「よくわからん」「面倒」というところだろう。
加速度的に物流、情報のスピードが速くなった結果、大きな大きな波は父を会社ごとをさらっていった。以来、二十年以上も僕は父とまともな会話はしていない。死とはそれほどに強大なパワーを持つ。

もちろん破産の要因はそれだけではないであろうが、僕自身そういったものが嫌で今でいうChatGPTに代表される最新のテクノロジーには触れるようにしている。そう、僕が恐れているのも「社会的な死」

スパーンと刃物でふっ飛ばされた頭部、宙に浮いている死んだはずの人、重兵器で木っ端微塵にされてしまった肉体、憎しみの表情を浮かべた怨霊。生と死がコロコロと移り変わる世界ではそのどちらもが単一的に描かれているが、「物理的な死」や「文化的な生」などとAI先生がいうように、生や死は複数枚異なるレイヤーがあり複合的に絡み合っている。

僕が恐れているはずの「社会的な死」、ここに対して前段の生存本能が働かないということは、僕が恐れているのはまた別の死なのではなかろうか。人によく思われたい、名声を得たい、リスペクトを高めたい、耳目を集めたい、そういったことに一切関心を持ててない、という事にならないか。

僕の好きな逸話に「30歳成人説」というものがある。

30歳成人説(30さい せいじんせつ)とは日本の民法成年を満20歳と定めているのに対し、「精神年齢でいけば今の30歳は、昔の20歳くらいにあたる」という考え方のことである。作家村上春樹が唱えている。
村上春樹は「自分が本当にやりたいことなんかそう簡単に分かるものではない、30までは色んなことをやって30になってから人生の進路を決めればよい」という趣旨のことを述べている。作家の田口ランディは、「人間は29歳に転機を迎えるという法則」(29歳変動説)というのを唱えている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/30歳成人説

青年期に学業を終え、さまざまな所に出向きさまざまな知見を高める。一つのことをじっくり考え続けるとに単一的でなく、時間の経過ととも、このようにより立体的に世界を見ることができる。
そしてその立体的では世界がより優しく感じられる。
ただし、諦めることを諦めなければ。

まとめると自分をこう読み解く。

「社会的な死」の対にあるのは「個人的な生」、つまり僕にとって「生きる」とは「個人的な生」。前述の人嫌いの線もこれで説明がつく。

自分は自分の音楽を経済活動の環に入れず、大切に箱にしまっていて、それを傷付けないよう、誰かに傷付けられないように大事に、大事に管理している。

世界的ブランドのルイ・ヴィトンも始まりは船旅用トランクであったよう、僕も箱の中身を大事に磨いて自分の納得いくまで品質を高めて、ストーリーを喧伝し、イメージを波及させブランド価値を高めればよい。

融資担当のおじさんと一時間程度談話。
「高島さんの場合、製造業みたいに物品を作ったり売ったりする訳ではないんで難しいんですよね。」「ブランド品を作る、みたいな考え方になります。」「仕入れとかが具体的にあるわけじゃなくて、高島さんの時間が原資、みたいなものじゃないですか。」「まぁつまり高島さん自身が商品になる、ってことです。」
そんなことを教えてもらいました。

最後に記事のタイトル、気持ちいいので是非実際に口に出して言ってみてください。

「ブランド品を買い漁る豚ども」

以上となります。

引き続きどうぞよろしくお願いいたします。

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