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満遍の笑みの中にヨギの王座はない

アサナの完成に執着する余り、洞察による呼吸や心の振る舞いに関する統制を、疎かにする事は愚の骨頂であり。

かといって、目を瞑り煽った感情の高まりと共に、満遍の笑みを浮かべ恍惚感に浸りながら取るアサナ然り。

その双方共に知性、洞察のカケラ無く、束の間の満足感と引き換えに、負傷の可能性があるという代償が、大きな口を開け待ち構えているのです。


アサナは常に知性、洞察と共に在るべきであり、感情を煽り爆上げて、その恍惚感の高波の中に私達が呑み込まれるのでは無く、逆に、感情の、その波が立たたぬ様、私達は適切で間接的なアジャストメントを感情に対して掛けていくべきなのです。

このことはヨガを学習していく上で、とても大事な基本中の基本の概念であるにもかかわらず、生徒、講師共に勘違いされていらっしゃる方々が大多数見受けられる為、以下に重ね重ねお伝えしておこうと思います。

(心底理解できているのであれば、例えば.. アサナ中の満遍の笑みの中にヨギとしての幸せがある。という様な見解が述べられることは無いのです)

感情とは、非常に扱い辛い存在です。しかし、感情に私達がコントロールされるのでは無く、逆に、感情とは私達がコントロールするべき対象なのです。

そして、ヨガとは本来、その感情を扱う、数少ないメソッドとして確立、発展してきた歴史を持つのです。


また、今、私があなたに伝えているこれらのことは、あなたのヨガに対する偏った考え方を整え直すための学習、つまり『考え方についての学習』です。

この『考え方についての学習』は、プラクティス(練習)ではなく、アジャストメント(調整)であり、エデュケーション(教育)なのです。

またなぜ、その様なことが必要なのかと問われるのならば..

「本質的なヨガとは何か」という概念に対して、効果的なヨガ学習をするには、身体的または精神的な実践に先立ち、自分自身が持っているヨガに関する様々な概念を修正することが重要になるのです。この修正を行うことで、効率的なヨガ学習が促進され、その後の上達を大幅に加速させることができます。

この考え方の学習、教育はオフザマットのヨガとも言い換えすることもできます。ヨガに対する考え方のバランスが整う事により、相乗効果もあり、オンザマットのヨガの効果も上がります。即ち、ヨガに関する全ての学習の底上げに繋がります。これは、ヨガに関する認識を向上させるためのヨガ教育なのです。


さて話を戻しましょう。ヨガ根本経典である聖パタンジャリのヨガスートラに於いては、『ニコヤカに笑い、感情を盛り上げヨガしなさい』とは何処にも書かれてはいない事実。


では、

聖パタンジャリは何と説いたのでしょう?


あなたがよく目にしたことのある。一番有名な句である『ヨガスートラ第1章第2節』を、私の注訳と共にお見せいたしましょう。


योगश्चित्तवृत्तिनिरोधः॥२॥

Yogaś citta-vṛtti-nirodhaḥ. ||2||


ヨガとは心の作用を制御すること。


この様に、そのものズバリを説かれています。


尚、書き出せば注訳のみで、この話が終わってしまう為、この句についての詳細は今回は省くとしますが、

みなさんのより良い理解の為に、解説しておかなければならい点をとして、


感情とは、数ある心の作用の内の一つであるということ。


そのことから、今回のお話の内容に沿い、更にわかりやすくする為に、敢えて抽象度を下げて説明するならば..


ヨガとは感情を制御すること。


となります。では、その格言に以下の問題を照らし合わせて、回答を求めてみましょう。

『感情を煽り、その感情の高まりと共に、満遍の笑みを浮かべ、恍惚感に浸りながら取るアサナ』

というものは..

ヨガスートラの説く『感情の制御』とは正反対の『感情の暴走』といえるでしょう。

そのことは、ヨガに対しての曲がったモノの見方、偏見。即ち、教義の曲解である。ということが判明します。


ヨガの根本経典であるヨガスートラがその教義の中で定義した様に..

感情に私達がコントロール(制御)されるのでは無く、逆に、感情とは私達がコントロール(制御)するべき対象なのです。

そして、この様にヨガとは本来、その感情を扱う、数少ないメソッドとして確立、発展してきた歴史を持つのです。


『よく目にした』ヨガスートラの句が、

『よく理解した』へと変わり、

あなたが知らず知らずのうちに身に付けてしまった、ヨガに対しての曲がったモノの見方、曲解や偏見を解く為の手助けになるのならば、私は嬉しく思います。



さて、更なる例題を出していきましょう..

ヨガイベントを主催し、又は講師として呼ばれ、エンタメ的な場を盛り上がる為に、オーディエンスの感情を煽り、敢えて道化を引き受ける分には、

現に私もそうしてきた経歴もあり、またその様な場で、そうするべきと判断したのなら、厭わずそうして皆と楽しむことも良いでしょうし、それはそれで別段良いとは思うのですが..

もしも本気でソレこそがヨガの本質と考えているのであれば、それは私から見て非常にもったいない事だと感じるのです。



皆さん考えてみてください。

今、皆さんは学生時代と同じ遊び方をしたいと思いますか?


毎日、朝までオールナイトで呑み明かしたいですか?


いうまでもなく別にそうはしたくないでしょう。


そうなのです。 


楽しみ、喜びに対して、今求めているモノが過去とは異なるのです。


学生時代のあなたが知ることのない

今のあなたの楽しみ、喜び。


そのことと同じくして、


無感情のヨガにも、今のあなたが知ることのない


知的で更に奥深く、質の高い楽しみ喜びが、そこにはちゃんとあるのです。




では、そろそろ今回の学習の核心に触れていきましょう。



まず、

あなたは感情では無いのです。



そして、

肉体でも無いのです。




あなたの本体は意識です。 




その意識を感情に乗っ取られないように


アサナやプラナヤマ、瞑想といった全てのヨガ技術は、すべてあなたが行うのです。


知性と洞察を用いて、感情がアサナを取っていることに気がつくべきなのです


さもなくば、あなたは感情に乗っ取られてしまう


もしくは、あなたは自ら意図して
感情にアサナを取らせてしまうのです。


更に、もっと、気持ち良くと..


快楽を追い求めるが故に、自ら感情を煽り、
その手綱を手離し、暴走させるのです。


ヨギの追い求めるべきモノとは、束の間の快楽では無く感情の静寂化なのです。


そして、
ヨギの玉座に座るのはあなたなのです。


この先も、
ずーと感情に座らせておいて良いのですか?



誰がアサナを取っているのですか?


アサナを取るのは、あなたなのです。



意識を司令塔に据え、シッカリとハッキリとクリアに保って、アサナを取られることから再スタートしてみてください。

またその際、感情が入り込む隙もない様に、そのアサナの入りから終わりまでの全ての行程に、意識を全集中させて行なってみてください。


その考え方、一つ持たれるだけで、

実践して行くだけで、本当に全てが変わって行きます。


なぜなら今、私がお伝えしていることこそ


ヨガの真髄なのです。


また、その様に知性的にヨガをプラクティスしていくことにより、いずれは..


ヨギの王座にあなたが座れていること


ふと、気付かれる日も来ることでしょう。



全ての根本的なベースは思考なのですから..


これは思考のアジャストメント


これらはヨガ教育です。



山を登るも一歩からといいます。



では、本日の授業を終わります。



Namasute.




現在、過去、未来へと刹那にその居場所を移し行き、決して一箇所に留まることのない小魚の様なココロと感情の舞いを、アサナの中でラジャス(刺激性で熱狂性)、タマス(暗く鈍い、停滞性)へと偏らせることなく

知性と洞察の目を用い、心身に纏わるあれやこれを高い集中力と共に分別、補正し、感情無きサットヴァ(静寂で純粋)のコックピットへと、自らの本体である意識を巧みに導くマエストロこそ、ヨギと呼ばれるにふさわしい。

また、その道中の行程には、満遍の笑みなどほんのカケラも無いはずなのである。

ヨギが座すべきその王座は、決して満遍の笑みの歓喜渦巻くその中などには無く静寂なサットヴァのその台座の上に、それはそこにちゃんと在るのです。



そして、その

ヨギの王座に座るのは、



あなたの本体。



意識なのです。



Om

坂東イッキ



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