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自己探究のヨギの道-ヤマニヤマ倫理道徳


あらすじ
この物語りは、古典ヨガの根本経典であるヨガスートラ中のヨガ修練方法・アシュタンガ(八支則)の規範に当たる、ヤマとニヤマという倫理道徳を(あとがきにて概要説明あり)、現代に生きるヨギ(ヨガを行う人)が実践し、自己実現を目指しゆくプロセスを描いたフィクション短編小説です。

物語りの前中盤では、タマス(暗質、邪悪)な性質の者と、ラジャス(激質、物質的な成功を望む)な性質を持つ者という、二名の登場人物が、魔性や強欲に囚われ、道徳的に迷った挙句に、狂気に取り憑かれ、自己探求の道を見失うという、愚かな人間の姿が描写されています。 

しかし、後半では、自己探求のため、聡明な意思を立て、倫理道徳の道を進み、光り輝くサットヴァの人(純質、真実を求める)を目指すヨギの姿が描かれています。はたして、自己実現は成されるのでしょうか?



自己探究のヨギの道

ヤマニヤマ倫理道徳







“Achara niti dharma pranani”

倫理道徳の義務は人生の本質である




– 聖パタンジャリが規定したアシュタンガの主題 –








道徳の実践

それは

善良な人間に観られる

最も特徴的なしるしであり



人が人である為に

人間性を維持する為に



本来ならば義務として

あたりまえに

行われるべきものである



したがって



このことはダルマであり

またそのように行えば

アカルマとなる



しかしながらそのことが



呼吸の様に自律的で

オートマティックに



発動するのであれば

何ら難色ないのであるが



しかしそれは



自らの意志の力と

信念により



意識的かつ自発的に

発動させるものであり



そのことは



自己の前に鏡を置き

自分自身を見つめ直す

ことに他ならず



そのことから



外的圧力や巨大壁

誘惑などによりまどわされ



逸脱いつだつのベクトルへと

手招きされたり

流されたりしている



自身の不甲斐無さの発見は

苛立ちと鬱陶ゆうつ

内的葛藤ないてき-かっとう



それは



自分軸なく自信なく



常に相対的で相手や環境に



へつらい併せて立ち周り

裏で湿った毒気どっきを漏らす



またその様に



ホンネで話しをしていない



からこその



ココロの思いの

押し殺しであり



また



その負の想いを



心の媒体ばいたいで練り上げ

熟成させることで



小さな苛立いらだちねたみから

怒り嫉妬しっと

魔性ましょうの怨みへと



育み育てる

狂気の育成プロセス





それらを



溜め込んだ

邪悪な念をかて



漆黒しっこくの闇の裏に

馴染なじみ溶け込むよう



魔境まきょうの解れ目から

執着しゅうちゃくの対象を狙い撃つ





自堕落じだらくに揺れる影に

不埒ふらち色香いろかまと

真蛇しんじゃの埋まったうなじに手を添え

細首かしげて艶髪あでがみを濡らす





憎しみの下から時折ときおり

掛け違えた

苦色にがいろの哀しみが

重広おもびろくく胸をにじませる





魔空まくうの裂け目からのぞいた



きょうの刺すひずんだ瞳





ズレの生じた瞳孔どうこうの奥ノ院から





妖気邪気霊気漂ようきじゃきれいき-ただよ



時空には

ゆがみみが生じ

捻じ曲げられ



かすみ




それは

またたく間に



妖気纏ようきまと

真白ましろく透けて現れ









その



かすみ



刹那せつな変幻へんげ





姿浮かび上がるは





般若はんにゃ









憎しみ 哀しみ



負の怨念おんねん










光なき妄想もうそう

その日を心待ちに



いつかいつかと



不修多羅ふらちな爪をぎつけ

待ち望んでいるのである





そうして



その様な人ほどによく泣き

さみしがり



すぐ泣きよく泣きわざと泣き



弱きフリして同情誘い



人を取り込み

混沌こんとん法螺ホラを吹き



その裏であざむき

蠱毒こどくへと招き陥れるのである





そのように



あんなこんなを繰り返す内に



好き?



そんな自分の想いさえ見失い



陰気湿いんき-じめった無秩序な

心の不穏ふおん漆黒しっこくの闇に



それを探しに来たのだけれども



ココロの想いを押し殺し

数多あまたの怨みを

練りに練って来た温床おんしょうでは



好き



という純粋無垢じゅんすい-むく

気持ちでさえも



その魔の不浄化作用により



心の深淵しんえんにこびり積もった

腐敗したヘドロと怨念への

生贄いけにえとして捧げられるだけであり



それは跡形も無く

喰い散らかされ

刹那せつなに消えゆくのである



ホントの自分の気持ちなど



そのような人の中には

何処にも在りはしないのだ



普遍利己的ふへん-りこてき

チグハグな本音ホンネ建前タテマエ



成れの果ての無常むじょうなのである





そのような



心の無明むみょう投写とうしゃした

あざと笑いの品無ひんなかげ

隠した衆多しゅうたの嘘と悪事



不道徳で欲深き

魑魅魍魎ちみ-もうりょう



学びなく同じ過ち繰り返し

修羅以下外道しゅら-いか-げどうに成り下がるのである





重く湿った粘質ねんしつ

ドス黒い

数多あまたな負の感情



その本質は



魔界のいん



タマスである







かたや







外的圧力や巨大壁きょだいへき

それらに対し

常に真っ向からぶつかり



なにがなんでも

自らの意見を押し通し



対象を意のままに

あつかおうとする



自身の強欲ごうよくかつ

肥大ひだいなエゴの発見



しかし



自身をかえりみることなど



一度も無く





それは



自分軸が絶対で柔軟性なく

環境や相手を考慮せず



絶対に正しいという



思い込みから発症する

圧倒のゴリ押し



あくまでも自己中心的に



冷酷無情れいこくむじょう偏見へんけん

ジャッジメントを下し



物事を推し進めて行くのであった





しかし一方



権威権力や金の座には

目っぽう弱く



権威にり寄りへつらい

尾を振りおだててび売り



権力に胡麻ごますりおもねり

手を擦り靴舐め媚び売る





このようにして



いとも簡単に屈した

権威権力への依存は



それを



手に入れたことによる

自身のアイデンティティの充足じゅうそく



社会的地位と金銭の獲得により

中二病的な自己顕示欲けんじよくを満たし



我こそが資本主義社会の申し子なり



とのあさはかで薄っぺらい

バイアスの掛かった主張こそ



品無き教養の貧困さの象徴しょうちょうであり



非執着しゅうちゃく離欲りよく無き

無知が産み出す四苦悩しくのう

我が身に降りかかってくる



ということなど



この浮かれ様では知るよしもなく





戦慄せんりつが自尊心に走る悦楽えつらくと共に

勝利の金美色酒きんびしょくしゅに酔いしれる



金屏風きんびょうぶ縁取ふちどられた

現世楽園での謳歌おうか



その



エゴをも満足させたのである





しかし



その歓びと安堵あんど

つか欲王よくおうとのお約束



冥界めいかいの裂け目より

燃え吹き上がる



新たなる際限さいげんなき貧欲ひんよくの炎は

更なる虚栄心きょえいしんへの生贄いけにえを欲し



それは



我慢の効かぬ

一時の快楽へのえと乾き



その媚薬びやくを追い求め



利己的な欲望に支配され

利益ある仕事に執着し



不道徳で残酷非道な

偏見へんけんはかり尊重そんちょうなく他者を掛け



冷ややかに差別見下し

支配的でドライにさげす



もしくは





無関心







そうして



一人



名誉金銭を手中しちゅう

私腹しふくを肥やすのであった





しかし



そのような蛮行ばんこう

他からの抵抗を引き出し



それより現れた極大壁や

その表裏からの反撃に



はばまれる自らのエゴ



それは



我を押し切ろうとする



からこその



障害の現出であり



それにより



思う様にならない状況や対象への

焦燥しょうそう苛立いらだ



そこより出でた



執着と怒りに取り憑かれ



自己統制のハイアラキーは

革命の象徴を観る




さて!



今我が身は欲神カーマに

剥奪はくだつされたのである



後は



憤怒ふんどのなすがまま

否応いやおうなし容赦ようしゃなしに



御身おんみに爆発的な負の感情の

大噴火を観ることとなる







しかし



それら全ての

蛮行愚行ばんこうぐこうの由来は



エゴ



その者からでは無く



許多きょた煩悩ぼんのうから

発現してきており



謂わば

エゴとは欲の傀儡かいらいなのである







そのことは





こうを焚き

衣に薫りを移すように



うねり始めた欲炎を

焚き付けられ

欲をまとったエゴを



立ち昇った欲の火炎が渦と共に

根こそぎ巻き上げていくのだ



燃え盛る

色取々いろとりどりの欲炎にあおられ



黒雲こうくうん低く垂れ込め

三角護摩ごまの高座のエゴは



欲神カーマに

強欲の焔矢ほのおやを放たれ



歓喜裂かれるかのように

再び舞い上がっていった



その舞は欲炎の中で妖艶煌ようえんきらめき

強欲にまみれ舞い狂う





もっともっと



浅ましく





束の間の快楽へのあくなき欲求



ありとあらゆる欲に

その身を自ら明け渡し



ゴマすりと傲慢高飛車ごうまん-たかびしゃ

無限のリア充と乾き切った飢渇こかつ



その両極を

行ったり来たりの二元落ち





そのことは



多忙の極限状態からの解放を示唆しさ

脳内麻薬物質を叩き起こすのだ



血走ったまなこを這わせ

あられ太鼓とどろ

鳴り響き渡り



愉楽ゆいらくの金美色酒の油注ぎ

護摩ごま木燃え噴き上がる欲炎



欲の炎に突き動かされ

強欲の羽衣はごろもまとったエゴが



我を忘れて踊り狂う



悦楽を垂れ流す

そのひずんだ脳内の現れ



ギラついた瞳の奥底から



現世の覇王を祈願し

司祭唱えし枯渇こかつの裏マントラが

輪廻りんねこだまし響き渡るのだ



躍動やくどうする煩悩のほのお



法螺ホラの音鳴り響き渡る

狂気乱舞の沙汰なのである





しかし



この様な者の心の有り様は

決して安息の地などではでなく



学びなく同じ過ち繰り返し



行き着く先は



先無き





袋小路ふくろこうじ





修羅しゅら以下外道に成り下がるのである





燃え立昇る色取々いろとりどりの欲炎

とんじんを源とす

数多あまたの煩悩



その本質は



強欲のいん



ラジャスである







そして



前出のタマス、ラジャス

双方共の心には



安堵あんど静寂せいじゃく

カケラなく



千変万化せんぺんばんか

右往左往うおうさおう

七転八倒しちてんばっとう





しかしながら



倫理道徳ヤマニヤマ



絶え間なき修練アビヤーサ

離欲と非執着ヴァイラーギヤ

ぎょうこそが



思考と感情チッタの浄化と

怨念や煩悩にわれた

エゴアハンカーラ

手枷足枷てかせあしかせを解く釈放しゃくほうへと

結び付くことなど知るすべもなく



同じ無明を繰り返し

散々のたうち回った挙句あげく



面前にそびえ立つ壮大なる

壁を観ることとなり



どどのつまり

先詰まり



絶望感と無力感の

途方に暮れることとなる







光なき













無明













しかし





主体は常に観るものであり





自己改革の

明瞭めいりょうなる意志力の下



知性の光と洞察の目

牢固かっこたる信念と自己統制を持ち



常に客観視点に立脚し



森羅万象しんらばんしょうの法、ダルマの欠片

闇を照らす聖なる叡智の光



根本経典ヨガスートラ



“Achara niti dharma pranani”

倫理道徳の義務は人生の本質である




聖パタンジャリのアシュタンガ



叡智光えいちこうの基準物差ものさ

ヤマニヤマを用いて



ありとあらゆる

対象を照らし合わせ



その善悪の度数を

あからさまに測り切り



しなりと屈強くっきょうさとを併せ持つ

柳のように



状況に応じ



ありとあらゆる

対象に対して

自然と柔軟に対応し



倫理道徳的な選択を

行うことにより



いつしかそれも

可能となるのである





また





賜物プラサード



受容者じゅようしゃは常に


主体でなければならない






思考の源である

チッタの浄化



それに追随ついずいする

言葉、行動、習慣の最適化



サットヴァ過多かたに伴う

人格、品格、聖格の獲得



その様な過程かてい



その人の

人となりとは



純粋、善美、叡智えいち

を兼ね備えた



真実の光印こういん



サットヴァ

















真実の存在




















その人に



サットヴァの

完成を観るのである





そして



魂に輝きを

求めるのであれば



それは



自ら一人一人が義務として

行うべきことであり



ヨギはそのことを

ヤマニヤマのサダナと

呼ぶのである



したがって



このことはダルマであり

またそのように行えば

カルマとなる





しかし





ただ云えることに



前世今世来世にいて



それ無きものは光なき

修羅以下外道しゅら-いか-げどうに成り下がる



そのように



人が闇に落ちるのは

自己の光の在り様を

見失うからであり



それ故に



人類にはそれらのことを

考えられる



知性が与えられているのである



あなたにも皆にも



平等に





Om



坂東イッキ



……………………………………………


あとがき


“Achara niti dharma pranani”

倫理道徳の義務は人生の本質である




上記の文は、今回の本文中に差し込ませて頂いた句であるが、まずは、何をさておき、その句についての解説をしておかねばならないであろう。

古典であるインドの聖典、経典に於いては、一般的に問題を提起する際に問題定義を行い、それに基づき主題を設定するという慣習があるのである。

その慣習は、ヨガの根本経典であるヨガスートラに於いても当然の事として行われており、その中核思想であるヨガの実践理論、アシュタンガ(八支則)の主題は、著者である聖パタンジャリによって、以下の様に規定されていたのである。



“Achara niti dharma pranani” 『倫理道徳の義務は人生の本質である』



そのことは、アシュタンガとは、宇宙の摂理であるダルマに基づいて設計された、倫理道徳に準じた修練方法の集合を意味しており、またそれは、ヤマニヤマだけではなく、8つのヨガの修練方法全てが、個人の義務として実践されるべき倫理道徳、即ち、善人と成る為の行いであることを示唆しているのである。

このことは、世界中のヨガプラクティショナーが知るべきことであり、しかし、残念ながら世の中に於いて、実に知られていない事実なのである。


以下より、ヨガスートラ中のヨガ修練方法・アシュタンガ(八支則)の規範に当たる、ヤマとニヤマ(倫理道徳)の概要を記する。

ヤマ(5つの禁止事項)

  1. アヒムサ : 非暴力

  2. サッティヤ : 真実であること

  3. アステーヤ : 盗まない

  4. プラマチャリア : 禁欲、欲抑制

  5. アパリグラハ : むやみに貪らない

ニヤマ(5つのおすすめ)

  1. シャウチャ : 清浄

  2. サントーシャ : 知足、足るを知る

  3. タパス : 絶え間なき修練

  4. スワデイヤーヤ : 自己探求のための聖なる学び

  5. イシュワラプラニダーナ : 神に委ねる

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