自己探究のヨギの道-ヤマニヤマ倫理道徳
自己探究のヨギの道
ヤマニヤマ倫理道徳
“Achara niti dharma pranani”
倫理道徳の義務は人生の本質である
– 聖パタンジャリが規定したアシュタンガの主題 –
道徳の実践
それは
善良な人間に観られる
最も特徴的な印であり
人が人である為に
人間性を維持する為に
本来ならば義務として
あたりまえに
行われるべきものである
したがって
このことはダルマであり
またそのように行えば
アカルマとなる
しかしながらそのことが
呼吸の様に自律的で
オートマティックに
発動するのであれば
何ら難色ないのであるが
しかしそれは
自らの意志の力と
信念により
意識的かつ自発的に
発動させるものであり
そのことは
自己の前に鏡を置き
自分自身を見つめ直す
ことに他ならず
そのことから
外的圧力や巨大壁
誘惑などにより惑わされ
逸脱のベクトルへと
手招きされたり
流されたりしている
自身の不甲斐無さの発見は
苛立ちと鬱陶の
内的葛藤
それは
自分軸なく自信なく
常に相対的で相手や環境に
へつらい併せて立ち周り
裏で湿った毒気を漏らす
またその様に
ホンネで話しをしていない
からこその
ココロの思いの
押し殺しであり
また
その負の想いを
心の媒体で練り上げ
熟成させることで
小さな苛立ち妬みから
怒り嫉妬を
魔性の怨みへと
育み育てる
狂気の育成プロセス
それらを
溜め込んだ
邪悪な念を糧に
漆黒の闇の裏に
馴染み溶け込むよう
魔境の解れ目から
執着の対象を狙い撃つ
自堕落に揺れる影に
不埒な色香を纏い
真蛇の埋まった項に手を添え
細首かしげて艶髪を濡らす
憎しみの下から時折
掛け違えた
苦色の哀しみが
重広く胸を滲ませる
魔空の裂け目から覗いた
凶の刺す歪んだ瞳
ズレの生じた瞳孔の奥ノ院から
妖気邪気霊気漂い
時空には
歪みが生じ
捻じ曲げられ
霞
それは
瞬く間に
妖気纏い
真白く透けて現れ
今
その
霞
刹那に変幻し
姿浮かび上がるは
般若
憎しみ 哀しみ
負の怨念
光なき妄想の
その日を心待ちに
いつかいつかと
不修多羅な爪を研ぎつけ
待ち望んでいるのである
そうして
その様な人ほどによく泣き
さみしがり
すぐ泣きよく泣きわざと泣き
弱きフリして同情誘い
人を取り込み
混沌の法螺を吹き
その裏であざむき
蠱毒へと招き陥れるのである
そのように
あんなこんなを繰り返す内に
好き?
そんな自分の想いさえ見失い
陰気湿った無秩序な
心の不穏な漆黒の闇に
それを探しに来たのだけれども
ココロの想いを押し殺し
数多の怨みを
練りに練って来た温床では
好き
という純粋無垢な
気持ちでさえも
その魔の不浄化作用により
心の深淵にこびり積もった
腐敗したヘドロと怨念への
生贄として捧げられるだけであり
それは跡形も無く
喰い散らかされ
刹那に消えゆくのである
ホントの自分の気持ちなど
そのような人の中には
何処にも在りはしないのだ
普遍利己的で
チグハグな本音と建前
成れの果ての無常なのである
そのような
心の無明を投写した
あざと笑いの品無き陰に
隠した衆多の嘘と悪事
不道徳で欲深き
魑魅魍魎
学びなく同じ過ち繰り返し
修羅以下外道に成り下がるのである
重く湿った粘質の
ドス黒い
数多な負の感情
その本質は
魔界の印
タマスである
かたや
外的圧力や巨大壁
それらに対し
常に真っ向からぶつかり
なにがなんでも
自らの意見を押し通し
対象を意のままに
扱おうとする
自身の強欲かつ
肥大なエゴの発見
しかし
自身を省みることなど
一度も無く
それは
自分軸が絶対で柔軟性なく
環境や相手を考慮せず
絶対に正しいという
思い込みから発症する
圧倒のゴリ押し
あくまでも自己中心的に
冷酷無情な偏見の
ジャッジメントを下し
物事を推し進めて行くのであった
しかし一方
権威権力や金の座には
目っぽう弱く
権威に擦り寄りへつらい
尾を振りおだてて媚び売り
権力に胡麻すりおもねり
手を擦り靴舐め媚び売る
このようにして
いとも簡単に屈した
権威権力への依存は
それを
手に入れたことによる
自身のアイデンティティの充足と
社会的地位と金銭の獲得により
中二病的な自己顕示欲を満たし
我こそが資本主義社会の申し子なり
との浅はかで薄っぺらい
バイアスの掛かった主張こそ
品無き教養の貧困さの象徴であり
非執着と離欲無き
無知が産み出す四苦悩が
我が身に降りかかってくる
ということなど
この浮かれ様では知る由もなく
戦慄が自尊心に走る悦楽と共に
勝利の金美色酒に酔いしれる
金屏風に縁取られた
現世楽園での謳歌は
その
エゴをも満足させたのである
しかし
その歓びと安堵は
束の間の欲王とのお約束
冥界の裂け目より
燃え吹き上がる
新たなる際限なき貧欲の炎は
更なる虚栄心への生贄を欲し
それは
我慢の効かぬ
一時の快楽への飢えと乾き
その媚薬を追い求め
利己的な欲望に支配され
利益ある仕事に執着し
不道徳で残酷非道な
偏見の秤に尊重なく他者を掛け
冷ややかに差別見下し
支配的でドライに蔑み
もしくは
無関心
そうして
一人
名誉金銭を手中に
私腹を肥やすのであった
しかし
そのような蛮行は
他からの抵抗を引き出し
それより現れた極大壁や
その表裏からの反撃に
阻まれる自らのエゴ
それは
我を押し切ろうとする
からこその
障害の現出であり
それにより
思う様にならない状況や対象への
焦燥と苛立ち
そこより出でた
執着と怒りに取り憑かれ
自己統制のハイアラキーは
革命の象徴を観る
さて!
今我が身は欲神カーマに
剥奪されたのである
後は
憤怒のなすがまま
否応なし容赦なしに
御身に爆発的な負の感情の
大噴火を観ることとなる
しかし
それら全ての
蛮行愚行の由来は
エゴ
その者からでは無く
許多の煩悩から
発現してきており
謂わば
エゴとは欲の傀儡なのである
そのことは
香を焚き
衣に薫りを移すように
うねり始めた欲炎を
焚き付けられ
欲をまとったエゴを
立ち昇った欲の火炎が渦と共に
根こそぎ巻き上げていくのだ
燃え盛る
色取々の欲炎に煽られ
黒雲低く垂れ込め
三角護摩の高座のエゴは
欲神カーマに
強欲の焔矢を放たれ
歓喜裂かれるかのように
再び舞い上がっていった
その舞は欲炎の中で妖艶煌めき
強欲にまみれ舞い狂う
もっともっと
と
浅ましく
束の間の快楽へのあくなき欲求
ありとあらゆる欲に
その身を自ら明け渡し
ゴマすりと傲慢高飛車
無限のリア充と乾き切った飢渇
その両極を
行ったり来たりの二元落ち
そのことは
多忙の極限状態からの解放を示唆し
脳内麻薬物質を叩き起こすのだ
血走った眼を這わせ
あられ太鼓轟き
鳴り響き渡り
愉楽の金美色酒の油注ぎ
護摩木燃え噴き上がる欲炎
欲の炎に突き動かされ
強欲の羽衣を纏ったエゴが
我を忘れて踊り狂う
悦楽を垂れ流す
その歪んだ脳内の現れ
ギラついた瞳の奥底から
現世の覇王を祈願し
司祭唱えし枯渇の裏マントラが
輪廻こだまし響き渡るのだ
躍動する煩悩の焔
法螺の音鳴り響き渡る
狂気乱舞の沙汰なのである
しかし
この様な者の心の有り様は
決して安息の地などではでなく
学びなく同じ過ち繰り返し
行き着く先は
先無き
袋小路
修羅以下外道に成り下がるのである
燃え立昇る色取々の欲炎
貪、瞋、癡を源とす
数多の煩悩
その本質は
強欲の印
ラジャスである
そして
前出のタマス、ラジャス
双方共の心には
安堵、静寂
カケラなく
千変万化
右往左往
七転八倒
しかしながら
倫理道徳
と
絶え間なき修練と
離欲と非執着の
行こそが
思考と感情の浄化と
怨念や煩悩に囚われた
エゴの
手枷足枷を解く釈放へと
結び付くことなど知る術もなく
同じ無明を繰り返し
散々のたうち回った挙句
面前に聳え立つ壮大なる
壁を観ることとなり
どどのつまり
先詰まり
絶望感と無力感の
途方に暮れることとなる
光なき
無明
しかし
主体は常に観るものであり
自己改革の
明瞭なる意志力の下
知性の光と洞察の目
牢固たる信念と自己統制を持ち
常に客観視点に立脚し
森羅万象の法、ダルマの欠片
闇を照らす聖なる叡智の光
根本経典ヨガスートラ
“Achara niti dharma pranani”
倫理道徳の義務は人生の本質である
聖パタンジャリのアシュタンガ
叡智光の基準物差し
ヤマニヤマを用いて
ありとあらゆる
対象を照らし合わせ
その善悪の度数を
あからさまに測り切り
しなりと屈強さとを併せ持つ
柳のように
状況に応じ
ありとあらゆる
対象に対して
自然と柔軟に対応し
倫理道徳的な選択を
行うことにより
いつしかそれも
可能となるのである
また
賜物の
受容者は常に
主体でなければならない
思考の源である
チッタの浄化
それに追随する
言葉、行動、習慣の最適化
サットヴァ過多に伴う
人格、品格、聖格の獲得
その様な過程を経た
その人の
人となりとは
純粋、善美、叡智
を兼ね備えた
真実の光印
サットヴァ
真実の存在
今
その人に
サットヴァの
完成を観るのである
そして
魂に輝きを
求めるのであれば
それは
自ら一人一人が義務として
行うべきことであり
ヨギはそのことを
ヤマニヤマのサダナと
呼ぶのである
したがって
このことはダルマであり
またそのように行えば
カルマとなる
しかし
ただ云えることに
前世今世来世に於いて
それ無きものは光なき
修羅以下外道に成り下がる
そのように
人が闇に落ちるのは
自己の光の在り様を
見失うからであり
それ故に
人類にはそれらのことを
考えられる
知性が与えられているのである
あなたにも皆にも
平等に
Om
坂東イッキ
……………………………………………
あとがき
“Achara niti dharma pranani”
倫理道徳の義務は人生の本質である
上記の文は、今回の本文中に差し込ませて頂いた句であるが、まずは、何をさておき、その句についての解説をしておかねばならないであろう。
古典であるインドの聖典、経典に於いては、一般的に問題を提起する際に問題定義を行い、それに基づき主題を設定するという慣習があるのである。
その慣習は、ヨガの根本経典であるヨガスートラに於いても当然の事として行われており、その中核思想であるヨガの実践理論、アシュタンガ(八支則)の主題は、著者である聖パタンジャリによって、以下の様に規定されていたのである。
“Achara niti dharma pranani” 『倫理道徳の義務は人生の本質である』
そのことは、アシュタンガとは、宇宙の摂理であるダルマに基づいて設計された、倫理道徳に準じた修練方法の集合を意味しており、またそれは、ヤマニヤマだけではなく、8つのヨガの修練方法全てが、個人の義務として実践されるべき倫理道徳、即ち、善人と成る為の行いであることを示唆しているのである。
このことは、世界中のヨガプラクティショナーが知るべきことであり、しかし、残念ながら世の中に於いて、実に知られていない事実なのである。
以下より、ヨガスートラ中のヨガ修練方法・アシュタンガ(八支則)の規範に当たる、ヤマとニヤマ(倫理道徳)の概要を記する。
ヤマ(5つの禁止事項)
アヒムサ : 非暴力
サッティヤ : 真実であること
アステーヤ : 盗まない
プラマチャリア : 禁欲、欲抑制
アパリグラハ : むやみに貪らない
ニヤマ(5つのおすすめ)
シャウチャ : 清浄
サントーシャ : 知足、足るを知る
タパス : 絶え間なき修練
スワデイヤーヤ : 自己探求のための聖なる学び
イシュワラプラニダーナ : 神に委ねる