周りはみんな敵だと思っていた。
このフレーズ、もう聞き飽きた笑
けれど、もれなく私自身もそういう設定だったのです。
みんな嫌いではない。
だから敵と思っていない。
なんて思い込んでいたので、まさか自分が周りを「敵」設定にしているだなんて認められなかったんです。本当に他人事のように見ていて「そんな荒んでいたんだ」「私はそこまで思っていないなぁ。私は幸せな方なんだな」なんて思ってたほど。
それが、まさか、自分が。
周りを敵だと思い込んでいたなんて。
本当に認めた時はショックでした。私の場合は「人を疑う」という方で出ていたのです。そして自分の意にそぐわない人たちを遠ざけていたんですね。その時点で「敵」設定しているのに、どうして認めないのか。。。
認めたらきっと、自分が耐えられなかったのだと思います。
自分がうんと努力して頑張らないといけない。
逃げられなくなる。
そう思っていたから。
だけど、そうやって逃げてうわべだけ整えたりかいつまんでやり過ごしても「解離」しているんですよね。本当の自分の声じゃないから。「やり過ごす」「体良くあしらっている」から。
いよいよ、無理が生じて自分と向き合わなければいけなくなった時に自分が周りを敵だと思っていること。敵だと思っているから疑って確かめる行動ばかりしていたこと。そこを直視したんですね。
もう、それはショックでした。
信じたい人、大好きな人を信じられていないから。
裏切りは許さないだなんて思いながら、自分が一番裏切っていたんですね。
だから裏切りは許さないって思うのでしょうけど。
それまでの自分の言動がとても恥ずかしくて恥ずかしくて、隠したい気持ちになったんですが、それも自分。
自分を守るために武装して頑張っていた、それだけ。
本当に精一杯頑張っていた。
だけど、武装しなくても良かったのです。
それを確認させてくれる人が居たことのありがたさ。
疑ってる自分も見せたくなかったのですが、それを曝け出すことは私にとって必要なことでした。疑いを晴らしていく過程が私には必要だったからです。
疑いを晴らすことで、自分の茶番であったこと。
そんなに世界は厳しくないし、それどころか優しくて愛溢れる世界であること。
だから、自分を隠さなくていいし、自分を認めてあげていい。
自分を認めた時、ものすごく嬉しかったんです。
自分の内側から「ようやく見てくれた」とほっとしたような、ただひたすら愛を注いでくれていた自分の声が本当に見てくれた喜びに溢れていて、愛おしく感じました。
自分を隠して、見ないようにしていたこと、本当に可哀想なことをしていたこと。
それでもずっと一緒にいてくれた自分の健気さ愛らしさに、もう悲しませたくないと思ったんです。
もしね、どうしても人を疑ってしまう。
裏で陰口言っているんじゃないか、本当は嫌っているんじゃないか、離れたいのではないか?
って人は、どうしてそう思うのか?
自分と対話してみてくださいね。
「愛が前提」と思い込めなくても、そういう設定で確認させてもらえる人がいるなら、確認してみてください。
きっと驚かれるでしょうけど、自分の思い込みにしか過ぎないことを気が済むまで確認したら、疑うのもバカらしくなる日が来ますよ。
エネルギー・オーガナイザー
一輝