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内燃「2.書き潰した願い」

 俺たちは大会を一ヶ月後に控えていた。若手の登竜門で、五年目になる俺たちにとっては、ラストイヤーになる大会だ。まだ、勝負のネタが完成していないので、少し焦りを感じている。それは、一ノ瀬も同じのようで、とにかくネタ合わせをしようと訴えてくる。切羽詰まっていることは確かだったので、とりあえず集まることにした。

 そういう日は必ず、半額の惣菜を買い、俺の家で集まることになっていた。四畳半のワンルームは、一人で暮らすのには便利だが、二人で過ごすには少し狭い。
基本は俺がネタを書くことになっているが、今日みたいに一ノ瀬が一緒に書く日もあった。

「とりあえず、設定としては〈同窓会で久しぶりに会って変わってしまった人〉でいこうと思ってるんやけど、どう思う?」
「ええんちゃうか。どんな人登場させる?」
「思いついたのはこんな感じかな?」
 ネタ帳を一ノ瀬に渡した。数分の間、真剣に眺めた後、「なんというかパンチが足りんな。」と言った。
「ほな、どんなんがある?」
「せやなあ、」そういって、一ノ瀬はペンをとり、書き始めた。

 数分後、自信満々に「できた!」と言ったので、見てみると、「南米の少数民族に入籍し、独特の民族衣装で登場」であったり、「テレビショッピングのプロになってて、真珠の指輪を売りつけようとしてくる」であったり、一ノ瀬らしい超展開が幾つか並んでいた。

「ええか、一ノ瀬。漫才にも理論ちゅうもんがあるんや。ただガムシャラにボケてたらええってもんやない。まず、設定をきっちり守らなあかん。今回の場合やったら、同窓会やから同窓会に関係のあるもんやないと。その上で、緻密な計算の中でどこで笑いを掻っ攫うかを考えなあかん。であるからして…」
 一ノ瀬には難しかったか。頭がショートしてしまっているようだった。俺自身もちょうど行き詰まりを感じてきたので、ベランダで一服することにした。

 その日は雨が降っていた。そのせいだろうか。全然煙草に火がつかない。何度か試したが、ライターの残りが少なくなっていることに気づいた。その時、意地でもこのライターでつけることに躍起になっていた。
 二、三分の格闘の後、なんとか火をつけ、煙草を吸い始めた。
 大会が一ヶ月後に控えているにも関わらず、ネタがまだできていないのは初めてのことだった。そんな現状に多少なりとも焦りを感じずにはいられなかった。それは一ノ瀬も同じなのだろう。

 最近ようやくオーディションにも受かるようになり、漫才の寄席に参加する機会も、もらえるようになった。しかし、当然勢いのある若手も増えてきて、自分の出られなかった寄席に若手が出ていることもあった。そういうことも重なり、余裕は本当になかった。
 タバコを吸い殻入れに入れると、短くなった吸い殻はジジ…と哀しい音を立てた。

 部屋へ戻ると、一ノ瀬がこの設定ならどうだと言わんばかりに紙を突き出してきた。
「残業で疲れ果てて、ジャコメッティの作品みたいになった人」
「誰がジャコメッティ分かるねん。それに残業で疲れ過ぎてはセンシティブ過ぎるな。」
 一ノ瀬は愛すべきアホである。丁重に却下して、また二人で机に向かった。そんなこんなで夜はふけていった。

 小鳥のさえずりが新たな朝を告げた。全てを白く染め上げてしまいそうな曇り空が世界を包んでいた。エナジードリンクも無くなった今、少なくとも俺の頭は真っ白だった。結局、その晩は何も進まなかった。
 何の収穫も得られない日は少なくない。



 その後、一ノ瀬を置いて眠い目をこすりながら仕事に向かった。今の稼ぎでは到底生活できないので、派遣社員として工場で勤務している。誰かに見られることなど微塵も気にしないような、殺風景な工場が第二の主戦場だった。工場の中は絶えず機械音が聞こえていた。

 働いている人はおじさんばかりだったが、ネタを考えながら仕事できるので、俺にとっては好都合だった。それに、おじさんたちはよく気にかけてくれる。
 同窓会でいた人のことを思い返しながら検品を進めていると、「花山くん眠そうやな。」と、工場勤務おじさんの一人、前原さんが話しかけてきた。

 前原さんは四十代後半くらいの気前のいいおじさんで、いっつも何かと奢ってくれる。若い頃、借金で苦労したらしく、その疲れが髪に表れていた。
「はい。大丈夫です。すみません。」
「最近、本業の方はどうなん?忙しいんか。」
「だめっすね。まるっきりうまくいってなくて。」
「まあ、まだ若いんやから。挑戦あるのみやで。間違っても俺らみたいに夢も希望も女房もないようなやつなったらあかんで。」
「ほんまに。この歳なったら一つも成長せんのやから。」
「成長していくのは、そのお腹だけやからな。」工場勤務おじさんの一人、さっさんが間に入ってきた。
「やかましわ。お前もやろ。」
 おじさんたちは、検品をしながら軽快なトークを展開していく。

 三年間の工場勤務で、おじさんたちの話はたくさん聞いてきた。もはや、検品することが仕事か、おじさんの話を聞くのが仕事か分からなくなるほどに聞いてきた。前原さんの話に限っては、本気を出せば伝記ができるほどだ。
 おじさんたちにとって、俺はちょうど息子くらいの歳のはずだ。そんな夢を追いかける若人は、この会社の期待の星に他ならない。いつも応援してくれるのだが、まだ芽の出る見通しのない俺にとってありがたいながらも、プレッシャーになっていることは確かだった。

 正直、俺はおじさんたちをどういう目で見ていいか分からない。俺は三十年後、おじさんになる。しかし、どんなおじさんになるか分からない。おじさんたちの生き様は、聞く限りカッコ悪くて、最高にカッコ良かった。
 その一方で、正直なところおじさんのようにはなりたくないと思っている自分もいる。誓って、おじさんたちを見下しているわけではない。

 ただ、おじさんのようになるということは、夢がついえることとイコールである。「俺みたいになるな。」という前原さんの言葉は、冗談混じりではあったが、苦労をかけたくない親心のようなものが働いていたのかもしれない。どのみち、俺が売れればこんな憂いもなくなるだろう。

 ふと時計を見ると、まだ十時だった。勤務時間は残り七時間…。検品をしながらネタを考えることにした。遠くでタービンの唸る音が聞こえていた。


 退勤する頃には、早く寝たい以外の感情が機能しなくなっていた。しかし、少しだけネタの構想はできた。帰りのバスに乗り、次の日のネタ合わせの日を決めようと携帯を開いた。すると、一ノ瀬から「実家に帰ります。探さないでください。」と連絡が来ていた。

 いや、新婚二年目くらいで夫との生活に嫌気がさした時の新妻か。それに、探さないでくださいって書いてる割に居場所伝えてるやないか。と、ツッコむ要素は多分にあった。だが、こうなってしまうと、一週間くらい一ノ瀬は引きこもってしまう。そうなると、大会に間に合わなくなる。帰りのバスを途中下車し、地元に向かった。

 数年ぶりに地元へ帰ったが、風景はそれほど変わっておらず、少し安心した。一ノ瀬をなんとか家から引きずり出し、昔よくネタ合わせをした公園へ連れ出した。
「どないしたんや。お前らしくない。」
「力が欲しい。」
「バーサーカーやないんやから。」
「そういうことやないねん。」冗談が通じない。

「とにかく、売れる気がせん。俺には才能がない。漫才は好きやし、一生なんらかの形で漫才はやりたいと思ってる。みんなを笑顔にしたい。けど、現状何もできてない。才能がない。昨日の晩かて、何もできてへん。どんだけ案を出しても、しっくりくるもんが出てこん。結果的に全部花山頼りになってしもてる。漫才で有名になって、一人でも多くの人を笑顔にしたい。世界を救いたい。大袈裟かもせんけど、漫才にはそんだけの力があると思ってる。でも何もできてない。何をすればええんか分からん。」
 うつむきながら一ノ瀬はひとしきり吐き出したようだ。

「ええか。お前が何もしてないと思ったことは一回もない。昨日に関しては結局俺も何も思いつかんかったし、お互い様や。それでも、一ノ瀬は一生懸命漫才に向き合ってる。いつだって漫才を諦めてない。舞台に立った時、特にそれが分かる。漫才は二人で作り出すもんや。お前ありきで、俺もネタ作ってる。それは、お前の必死さがバンバンディーゼルの武器やからや。だから、力ないってことは絶対ない。これだけは誓って言い切れる。自信もて。」

 意外にも、素直な言葉たちが自分の口から飛び出たので驚いた。一ノ瀬に本心をさらけ出すのは、片手で数えられる程しかない。
 少しだけ一ノ瀬の顔が明るくなったようだ。
「とにかく、今は才能ないって言うててもしゃあない。大会がもう、さしせまってるからな。ネタを書き起こしたら、特訓やから、腕まくって待っとけ。」
「まだ、腕まくりしたら肌寒いで。」
「あほ。そういうことちゃうねん。気合い入れて待っとけっちゅうことや。」
「うい。」


 そこからの日々は怒涛だった。記憶は時間の激流に流されながら、細かい粒状になった。


 ベルトコンベアーは生真面目に一定の時を刻む。満員電車に揺られる人々のように。終着駅も知らないで。途中下車する人の波。気だるげな夜は早くも更ける。

 目の下にくまを作りながら、ただひたすら机にかじりつく。入試前の浪人生のような風貌。ただ眼の奥だけが燃えている。

 クロカンブッシュに負けず劣らず、積み上がる思考の跡。自分の甘さの蓄積。夢より頼りないものはない。辺りに漂うカフェインの香り。淡々と始まっていく朝。

 嵐は過ぎるのをただ待つしかない。ただひたすらに過ぎるのを待つ。

 永遠にも感じられた時の流れ。大雨は真っ赤な嘘だったのだろうか。清々しく青空が広がっていた。風はそよそよとよそよそしく吹いていた。

 雑踏の合間に埋もれて、自分たちも風景の一部になりかけていた。心の声は届かない。ビルに吸い込まれてしまいそうだ。それでも。


 綺麗な夜景も、その灯りの一つ一つに物語があるはずだ。しかし、遠くから見るとそれはまるで何もなかったかのように均質におしなべられてしまう。それは記憶も似たようなものだ。

 夢か現実かその境も曖昧になってしまった時間の中で、ふと気づけば大会は明日に迫っていた。
 その時は、燻っていた過去と訣別し、今こそバンバンディーゼルが輝く時だと確信していた。

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