見出し画像

中学高校時代の絵①

こんにちは。
今日の春日井はくもり。
昨日は夜からずっと雷が鳴り響いていました。
私は、雷は結構好きです。
あの雷の稲光が見れると興奮するし、音も大きいほど楽しいです。
特に昔は何も思っていなかったんですが、結婚して愛知県で暮らして、社宅に住んだときに見晴らしの良い6階だったので、雷の稲光を見ることも増えたし、とにかく雲の動きをよく見てたからだと思います。
ただ、亡くなったマロンちゃんが雷が苦手だったので、私もマロンちゃんが怯えてる姿を見ると一時期は雷が嫌でしたが、基本的には音の大きい雷ほど楽しいです。
そして、福井の冬は、雷から始まります。
深夜に雷が鳴り響いたり、雷が落ちる音にも慣れており、大学時代も雷が一時的に酷かったときに周囲がざわついてて、新潟出身の友人とこのくらい普通だよね、なんて話したことが思い出されます。
今日は、昨日の雷雨でたくさん雨が降ったおかげか、いつもより少し涼しいです。

さて、今日は自宅から消えた高校3年生のときに作品展に応募した絵2枚と、中学2年生のときに描いて返却されなかった絵について、記録を残しておこうと思います。

この3枚の絵の下描きは実家から出て来ています。
だから、中学の絵は中学校の美術室に保管されてなければいけないはずです。
中学3年のときに、美術部の先生の部屋の棚の上に同学年の友人たちの作品も含めて置いてあったのもちゃんと覚えてます。
実家には、幼児期の絵まできちんと保管されていたので、両親が捨てるはずはなく、特に父は定期的に私の絵を飾るほどに娘である私を溺愛しており、誰かに絵を譲るようなこともしません。
それが高校時代の作品展に応募した絵が2枚だけ消えていました。
さらに言うと、小学2年生のときに入賞した絵も見当たりません。
これが偶然だと思いますか?
かなり違和感ですよね。

とりあえず、反日組織である警察に盗まれた可能性があるので、中高の絵の下描き3枚を、今日はアップしていきたいと思います。

まず、中学2年生のときに描いて中学校に保管されていないとおかしい絵は、かなり大きな絵で、先生からの学習テーマはテキスタイルデザインでした。
福井は繊維業が日本一なので、テキスタイルデザイン会社も多く、美術部の課題としてあげられました。
作品は、途中階段の掲示板に飾られ、中学の先生の中には、わざわざ全校集会の体育館で私にその絵を譲って欲しいと言われるほどでした。
でも、私は譲るとは言ってませんし、わざわざ譲って欲しいとお願いする先生が勝手に自分のものにするはずもありませんよね。
中学校に眠ってなければおかしいですよね。
さて、その絵の下書きの工程の一部を載せておきます。

まず、アイデアスケッチと称した紙を渡されました。そして、図書室に行き、資料を探して来るように言われました。私は百獣の王のライオンにゴージャスなバラを選びました。コレが1枚目に描いたもので、他にも何枚も描きましたが結局1枚目の下絵に決めました。
他にも数枚ありますが、上記のような感じです。

絵を決めたら、今度は先生がミニサイズでたくさんコピーして来てくれました。
そこに色を乗せてみるという感じです。

他にもたくさんあります。この色を変える作業を私が作った集スト周知ポスターでもしていますが、実際に色塗りを手作業でする必要がないので、スマホは本当に便利ですね。

そして、1cm感覚で線を入れて、大きな絵のサイズに合わせて等間隔の線を作品の紙にも鉛筆で薄く入れて下描き通りに描き写すという作業をする。
この作業は、すでに美術部の作品作りで何度もしていたので、この中学校に置いて来た絵が集大成だったとも言えます。
この絵を最後に1、2年生のときの美術部の先生は異動されて、次の年は美術部の方針が変わってしまい、私の学年は部長以外、美術部の先生に反抗心を抱き、私が初めて学校の先生に面と向かって反論した瞬間でした。
でも、美術部の顧問は私の言葉をきちんと受け入れてくれたのに、なぜか担任に呼び出され注意を受けました。
これが、担任こそが中学内で私を陥れた張本人だったと、この歳になって初めて気付かされた真実です。
私の担任は兄の中1のときの担任でもありました。
そのときにも、兄がトラブルを起こしたことにされ、次年度の担任に酷いことを言われたのを今でも母が覚えています。
同じように、クラスメイトでもう一人、私が一番性格が良くて美人で憧れていた女の子も、担任がその子のお姉さんの担任も持っていたという言葉を思い出しています。
それもクラスで兄弟を持ってたのは私たち2人だけだと言っていました。
私と彼女は、担任にクラスのリーダー的存在を担わされ、クラスのトラブルを生徒に押し付けながら、今の丸田小学校が保管している指導要録の偽造公文書と同じ手法で陥れられた可能性があるということです。
つまり、職員室内では嘘の情報共有をしていたということです。
彼女も本来の成績よりも偏差値の低い高校に行っていたので、私は当時違和感を感じていました。
他にも普段の成績より偏差値が低い高校を選ばされたり、逆にたいして成績が良くなかったのに県下一の進学校に行った子もたくさんいて、親の選択なんだろうと勝手に思っていました。
ただ、大学は中学の能力通りに進学していたので、県下一の進学校にそれほどの意味はないんだと思ってはいたんですけどね。
何より私の通った進学校は、補習授業の時間数が県下一の高校で、あれだけ上を目指す気のないのんびりした生徒たちを先生たちが必死に大学受験するように頑張ってくれたおかげで、私も大学進学する気になったので、私はいつもラッキーだとしか思って生きてなかったんですけどね。
さらに、いじめもなかった(と私が思っていただけだったみたいですが、小中のような酷いいじめがなかったのは事実です)ので、私の中では小中と違って、おもしろエピソードの思い出が自分の高校にはあり過ぎて、今でも誇りを持っています。
最初から大学も高校も偏差値なんて興味ないですからね。
本当、反日さんの嫌がらせのおかげで私の人生は順調そのものだったとしか良いようがなかったようです。

では、自宅からなくなった高校の作品でもそのまま同じ技術で作品作りをしています。
全て載せると大変なので、今日はここまでで。