結婚式は喪失を味わう場でもある。本番1週間前のわたしが思うこと
結婚式の本番まで1週間をきった。
身内だけの式とはいえ、この時期にやるという決断は難しかった。でもやる。
そもそもパートナーであるカオリさんの式に対する思いに触れていなければ、自分が式をやる意味を考えることはなかった。わたしが結婚式に対して持つ偏見がひどかったからだ。
形式に男尊女卑の名残が残っている、家族=有無を言わさずに尊いものだと印象づけられる、経済的に余裕のある人が自尊心を満たすために開く場である。ステレオタイプな幸せの形があり、そこにそぐわない選択をしようとすると越えるハードルがいくつもある。そんな偏見を持っていた。
これまで知人の式に参加してきて、「うわー、幸せの形押し付けられてる」と思ったことはなく、「〇〇さんらしい素敵な式だった」と感じたし、当事者が納得して選択して、その形を選ぶことは素敵だと思えていたのに。
結婚式という場では「ポジティブな感情以外感じてはいけないのではないか」という息苦しさがあった。そんなわたしが式をやる。カオリさんと一緒に。
「この人を呼びたい、こんな曲を使いたい、この人に挨拶を頼みたい、こんな場にしたい」カオリさんとたくさん話をした。「なぜ、それを選ぶの? そもそも手段としてわざわざ集まってやる必要ある?」とやる意義をたくさん聞いた。「うまく言語化できない、そんな意義とか意味とか必要?」と言われたこともあった。
そんな過程を経て気づいたのは、式は喪失を味わう場でもあるということ。わたしとカオリさんがそれぞれ歩んできた日常、そこで関係してきた他者がいる。わたしとカオリさんが出会ったことで、同居したことで、結婚という形を選んだことで生まれた変化がある。
カオリさんはわたしと同居するまでお父さんとお母さんと住んでいた。そこで営まれていた生活とはお別れして、地続きだけど新しい暮らしをはじめた。
一人暮らしだったわたしは、1Rのユニットバス家賃3万2千円の部屋とおさらばした。親との関係も変化した。こどもであるわたしは、カオリさんにとって「パートナー」であり、そこでしか引き出されない側面がある。カオリさんと一緒に親と会うときのわたしは、これまでのこども像とは違う側面が出ている。親との関わり方、話し方も地続きだけれど変わった。
友人たちも、既婚者になったわたしを見て、「気軽には遊びに誘えない」と慮ってくれているかもしれない。そうでもないかもしれない。本質的な関係は変わらないかもしれないけれど、でも確かに影響はある。
変化には常に喪失が伴う。
あの頃の出来事を思い出し、感情に立ち止まり、実はしっかり味わえていなかったものの意味を考える。わたしとは違う人といるときの知らないあなたを見て、出会い直す。
結婚式という場で、その場に居合わせた人が、喪失をそれぞれ味わう。味わいながらそこに居る。帰り道、これからなにを大切にして生きていこうか考える。そんな場なんじゃないか。
喪失という言葉を使うことに違和感を感じるかもしれない。喪失じゃなくて変化でいいじゃん。でもわたしは今はその言葉を選んでしまう。
わたしは、変化を前向きに受け入れていくために、喪失を味わいたい。ささやかなものだとしても、手間のかかるものだとしても。
そもそも喪失から生じる感情がネガティブなものとは限らない。人によってはポジティブなものかもしれない。
そんなことを考えながら、式の1週間前を迎えている。カオリさんにこの話をした。
すると、「意味を求めすぎ」と言われた。微笑んでいた。ああ、とても大切な人だ、と思った。
イラスト:くろいやなぎ
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