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遺書
「もし明日、死ぬとしたら?」
そんなありきたりなコトバじゃ収まらないくらい、たまらなく死にたくなる時がある。
朝、いつものように目覚めること。あったかいご飯がだいすきな人と食べられること。笑顔が自然と溢れること。
今日という日を、生きること。
自分自身や大切な人たちのそんな"当たり前"が犯されそうになった時、そいつは現れる。
手の震えが止まらなくなり、動悸が激しくなる。
次第に呼吸が出来なくなって、息が詰まる。
一般的な呼び方では「パニック障害」って言うらしいそいつは、いつも突然やってくる。
この世に命を授かって22年。まだ死んだことはないけれど、この時に限り僕は擬似的に「死」を体験する。
寝る前、ご飯中。繁華街を歩いてる時からバイト中まで。いつ「死」に遭遇するか分からない。
街中で突然倒れ込み、苦しそうにしている自分を横目に、人々は白い目で通り過ぎる。
でもね。
そんな中でも、声をかけてくれる人もいる。そばに居てくれる人もいる。
利害関係や奪い合いの世の中で、無償の愛を渡してくれる人がいる。
その優しさが。あったかさが。
お金持ちになることよりも、社会的成功者になるよりも、「生きている」を実感する瞬間だと、死にかけの僕は感じるよ。
コロナ。戦争。大災害。
今まで積み上げた当たり前が一瞬で当たり前じゃなくなるイマの世界を僕たちはいきている。
今ある仕事の大半はAIに変わるだろうし、仮想通貨やバーコード決済が世界でメジャーな取引手段になる頃、資本主義の根幹である現金の価値もどんどん下がってくると思う。
戦時下になれば、今ある暮らしのまま生きられる保証はどこにもないし、飢饉が起これば、食料は高騰しお金では買えなくなるかもしれない。
生きるために必要なものがなんでも手に入ると思っていた"お金"を持っていても、買えないものが出てくる。もっというとお金を持っていても生きられないような社会になると僕は思う。
だから僕は、拠り所を創り続ける。
見返りや利害関係が必要ない、優しさとあったかさで成り立つ人間関係と、その人たちの暮らしを支える"住まい"を続けている。
だから僕は、食料を作り続ける。
生きる上で必ず必要な食料を自分と自分の大切な人達のために、自らの手で生産できるようにする。
だから僕は、生きている。
奪い合いの競走レースの資本主義もいいけれど、大好きな人たちが互いに余ったものを分け与えるやさしい世界がひとつくらいあってもいいんじゃない?
僕自身が、大切なあなたが、これから生まれてくる子供たちが。
今日を生きるため。明日を生きるため。
これは擬似的に死んだ22歳が、これからを"生きる"ための遺書。