そもそも子育ては不自由
同僚とちょっと深い話をしました。これまでさらけ出すことをしなかった同僚とでした。さらけ出したらこんな話が出てきました。
「自分がしたいとかやりたいとかの中で95%は自分次第だと思っている。残りの5%はきっと本当にどうしようもないこと。」
そんなことを言っていました。
オモロイこと言うなぁとw
これ、私も実は最近考えていたことで
母である時点で、ご飯を毎食用意する、他の誰かをお風呂に入れる、公園遊びに付き合う、パズル一緒にやろうと誘われる、トイレトレーニングをする、働けるのは17時まで、ろくに本を読めない、一人の時間はみな寝静まったとき、それか誰かに頼めば作れる、イライラする・怒る自分に出会う、誰かを寝かしつかせる、背中や腕がパンパン・・・etc
母である時点で、母になれば当たり前のことと言われれば、当たり前。
でも時に想像していなかったこと、想定していなかったこと、こんなこと起こるんかよ!?いちいち振り回されて、子育てって、育児って、こんなことなのかよ!知らなかったよ!!ってことが沢山あります。
そう親になることをどんなことなのか知る前に私達は親になったように思います。
私達は母であることは辞められない。私達は母であることを既に背負っているという不自由さ。
その背負っているものを時短にしたり、ショートカットしたり、手軽にしたり、やらないことを決めたりして、負担を減らすために工夫はしています。
でも残念ながら背負っている時点で負担をゼロになくすことはできない。すでに不自由である状態。
そう同僚が言っていたように5%はどうしようもない事。
でも5%なんです。もしくは私はもっと少ないと思っています。
どうやって時短して・効率よくやって、うまいことサボるかを考えたり、試行錯誤する大いにありだとお思いますが、なくすことが出来ないことに悩んでいたとしたら、そのエネルギーでシンクに溜まったちゃわん洗いを済ませた方が良い。だってものの5分で終わったりするw
長女が生まれたとき母親に言われました。
「子育ては“手間”がかかるね。でも楽しかったよ。」
ご飯を誰かと一緒に食べられる、他の誰かとお風呂に入れる、滑り台なんか本気で滑ったりすると楽しい、パズルを出来るようになる姿を見られる、こうやって私もトイレを教えてもらったのか、仕事のマネジメント力が上がる、本読もうと思えば読める、朝のさわやか時間が楽しめる、頼れる誰かがいる、感情豊かだった自分と出会う、誰かの寝顔に癒される、背中や腕のハリは勲章である・・・etc
不自由さの中に暖かさを感じたり、心地よさを感じたり、ふと笑顔をもらったり、思わぬ笑っちゃうようなギフトが振ってきたり、幸せがあるんです。
いちいち不自由だけどいちいち幸せだったりもする。
「不自由な幸せ」と誰かが言っていました。
母としての責任や役割を背負いながら自分らしい母像で生きていきたいものです。