今日からなりたい自分になれるnote(in春彼岸)
「なりたいものが、本当の自分」
いつも、こんな言葉でメッセージを届けるブロガーさんがいる。
私が2019年に初めて会っためしょんさんは「-可愛い女性になる100の美言-」というブログを書いている。
いろんな他人の人生ストーリーを聞くたびに私は、この言葉の意味を考えさせられる。
あなたは何になっていますか?
それは「なりたいもの」が単に職業だけを指す言葉ではないからだ。
口にした言葉が目の前の現実をつくっているからだ。
例えは悪いかもしれないけれど、同居のパートナーへの不満をいつも口にする人は、「つまらない相手を選んだ上、一緒に暮らし続ける人」になっているし、
周りの上司や部下をバカにして働く人は、「バカな上司や部下としか働けない人」になっている。
相手が本当につまらないかバカであるかは関係ない。思考の癖や口癖を甘くみてはいけない。
私は何になりたいのだろうか。
話はポンと飛ぶのだけれど、私の亡くなったひいおばあちゃんは明治の生まれで中等教育を受けていなかった。
当時は「女の子に学問は不要」という風潮がまだ根強くあって、地方で中等教育を受けられる女性は少なかったと聞いている。
それで若かったひいおばあちゃんは、読めない漢字を飛ばしながら、家に届く新聞を読んだ。
書いてあることの意味がわからなくても、来る日も来る日も新聞を読み続けた。
そうして年をとり、学んだことを家族以外の誰かに伝えることも知られることもないまま、田舎の農村の家で静かに人生を終えた。
私が産まれるずっと前のことだ。
「人はなりたいものになる」
今日また、めしょんさんのブログで同じ意味の言葉を読み、母から聞いたひいおばあちゃんのこの話を思い出した。
ひいおばあちゃんは学ぶこと、誰かの書いた言葉に触れるのが好きだった。
だから、誰かに不要と言われても気持ちを曲げず、置かれた場所で、自分にできることで一生懸命に学んだ。
ひいおばあちゃんは憧れの学校の先生になることはなかったけれど、「誰かの書いた言葉や文章を心から大切に想う人」になった。
今日は春のお彼岸でこの後、ご先祖様のお墓まいりに行くのだけれど、それぞれのご先祖様が人生のどこかのタイミングで「お父さん」や「お母さん」になることを選んでくれたから今の私がいるのだと思うと、感謝しかない。
未来の私がなりたいものになれることに、
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今の私が幸せであることに、
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過去の私が体験できたすべてのことに、
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力いっぱい、お礼を伝えてきたいと思う。
今日の空でした。