第1章 お金の歴史①「貨幣」がなかった時代〜贈与と物々交換の起源〜
前回のふりかえり
1.1 狩猟採集社会の互恵的な贈与
私たちの祖先が農業を始める以前、少なくとも数万年にわたって、人類の多くは狩猟採集の暮らしを続けていました。学説によれば、現生人類(ホモ・サピエンス)は約30万年前にアフリカで登場し、日本列島などにも少なくとも紀元前3万年頃までには拡散していたと考えられています。そうした初期の時代には、大きな畑も家畜もないため、獲物や野生の植物を安定して確保できるとは限らず、共同体の成員同士で食料を融通し合うことが必須でした。
「困ったときはお互いさま」の暮らし(〜紀元前1万年頃)
紀元前1万年頃に農耕革命(新石器革命)が始まるまでの長い期間、各地の人々は十数人から数十人規模の集団をつくり、定住することなく移動生活を営んでいたと考えられています。もしある人が狩りに失敗しても、他の人が大型獲物を仕留めていれば、それを分け与えてもらえる。逆に、自分が成功したときは周囲に振る舞う -こうした「あげれば、いつか返ってくるかもしれない」という暗黙の期待が、集団の生存を助けるしくみとして機能していたのです。この行為は、人類学で「互恵的な贈与」と呼ばれ、目先の取引ではなく、長期的なやり取りを重視します。たとえば、あるとき獲物を受け取った人は、次の機会に別の食料や、木の実を多く採取できたときに返せばよいという、ゆるやかな貸し借りの感覚が長期にわたって成り立つのです。
“クラ”と“ポトラッチ”――贈与の象徴的事例(20世紀の人類学調査)
こうした「互恵的な贈与」は、狩猟採集だけに限らず、多くの伝統的社会で幅広く見られます。具体的な研究例としては、20世紀に人類学者たちが調査した、南太平洋のトロブリアンド諸島(紀元前から人が居住していた地域だが、西欧人類学者が調べはじめたのは1910〜1920年代)の“クラ”や、北西アメリカ先住民(19世紀〜20世紀初頭に盛んだった)の“ポトラッチ”があります。
トロブリアンド諸島の“クラ”(20世紀前半にブロニスワフ・マリノフスキらが研究)
南太平洋のこの諸島では、特別な首飾り(ムワリ)と腕輪(ソウルアヴァ)を定期的に交換する儀式を行っています。首飾りは時計回りに、腕輪は反時計回りに島々を巡回し、長期間一人の元に留めることは避けるのがルールです。これにより、宝物が常に動き続け、過去の持ち主や使用された重要な場面がそのまま品物に刻まれる形になっています。参加者はこれを受け渡しすることで社会的つながりを維持し、同時に、品物を適切なタイミングで手放すという振る舞いによって名誉を得ることができる、と観察されています。
北西アメリカ先住民の“ポトラッチ”(19世紀〜20世紀初頭を中心に報告多し)
ハイダ族やツィムシアン族など、カナダ西岸〜アラスカ沿岸部の先住民社会では、首長や有力者が大量の物資を配る儀式を“ポトラッチ”と呼びます。毛布や銅板、さらには食料などを大盤振る舞いし、ときには一見浪費とも思える行為を示しますが、それによって首長の寛大さや威厳が高まり、周囲からの尊敬を獲得するわけです。もし他の首長が同等、あるいはそれ以上の物資を振る舞えなければ、社会的地位が相対的に下がってしまうという競争も内包しています。宴会や儀式だけでなく、婚姻や葬儀などの重要な行事とも結びついており、単なる経済活動を超えた社会全体の安定や連帯を担っていると考えられています。
世界の他地域での類似ケース
アフリカやオセアニア、南米の一部地域でも、贈与をベースにしたやり取りは多く確認されてきました。たとえば、アフリカ南部のカラハリ砂漠周辺に暮らすサン(ブッシュマン)系の狩猟採集民には、”ハ ロー ・システム (hxaro system)”という物のやり取りの習慣があり、食料だけでなく服や道具を長距離にわたって交換し合うことで、知り合いのネットワークを複雑に築いていました。20世紀中盤以降、多くの人類学者が現地調査を実施し、それらが生存戦略にも深く結びついていると報告されています。
東南アジアの山岳地域やアマゾン流域などでも、集落間で穀物や狩猟の獲物をゆるやかに贈り合う慣習が記録されており、物理的に貨幣を持たずとも社会が成立していた事例が広く見つかっています。
“お金”以前の経済活動という視点
以上のように、狩猟採集の時代には「互恵的な贈与」が社会を回す仕組みでした。物が不足しがちな環境では、蓄えるにも限界があり、人が得たものをどこまで皆と分かち合えるかが全体の生存を左右します。その際、厳密に“等価”を求める交換よりも、後々返してもらえるかもしれないという緩やかな貸し借りのほうが、安全網として有効だったといえます。
むろん、そこには名誉や政治的駆け引きも潜み、単なる博愛精神だけが動機ではありませんでした。ただ、少なくとも貨幣を介さない形で「持ちつ持たれつ」の関係を生み出し、コミュニティを維持する方策として、贈与は大きな役割を果たしていたのです。これは、「お金」が生まれるよりずっと前から、私たちが物を交換する行為そのものに多層的な意味を持たせ、単なる経済合理性を超えた連帯や人間関係の構築に活用してきた証拠とも言えるでしょう。
1.2 農耕革命による余剰と物々交換の拡大
人類が農業を始める以前、何万年もの長期にわたって狩猟採集を中心に暮らしていました。ところが、紀元前1万年頃から、中東の「肥沃な三日月地帯」をはじめ、中国の黄河流域など世界のあちこちで農耕や牧畜がじわじわと広がり始めると、社会にとって大きな転機となる“余剰”が生まれます。これは狩猟採集の時代にはほとんどなかった現象で、余った作物をどう扱うかという新たな課題が、人々の暮らしや組織を一気に変えていきました。
大きな変化:余った作物をどう扱うか
紀元前1万年頃〜新石器革命の広まり
少なくとも紀元前1万年頃から、中東(現在のイラク周辺など)や東アジア(中国の黄河・長江流域)、南アジア、アフリカ北部など、複数の地域で農耕が独自に始まりました。ここで麦や稲などの穀物を大規模に栽培できれば、狩猟採集では想像もつかない量の食糧が得られます。天候さえ安定すれば、家族だけでは食べ切れないほど作物が余る状況が生じたのです。村や都市の形成(紀元前8000年頃〜)
余った作物を蓄えられるようになると、人口が増え、より定住的な暮らしが定着します。たとえば、現在ヨルダン川西岸にあるエリコ遺跡は、紀元前8000年頃から都市的集落を築いていた例として知られ、周囲を城壁で囲んでいた形跡も見られます。さらに、紀元前4000年頃にはメソポタミアのウルク(現イラク南部)で大きな都市が発達し、神殿や官僚組織を伴った“都市文明”が誕生しました。いずれの場所でも、「余った食糧をどう管理し、分配するか」が社会運営の重要な要素となります。
こうした社会では、狩猟採集だけではなかった時代と比べて、専門の職人や官僚、軍人、宗教を司る者が増え、これまで以上に「物々交換をしたい」という要望が高まっていきます。農民は道具が必要だし、職人は食糧を得ないと働けないし、役人や神殿も儀式や支配のためにさまざまな物資を確保しなければなりません。
余剰食糧が鍵となるこの時代には、「何を、どれくらいの量で、誰と交換するか」という問題が社会全体の大きなテーマになりました。
物々交換の“手間”と「みんなが欲しがるモノ」の必要
物々交換が広がるほど、たとえば「米を鉄の斧と交換したいが、相手が麦しか要らないと言い出した」といった噛み合わない場面が増え、実際の取引が滞ることがわかってきました。つまり、いま自分が欲しいものを持っている相手が、自分の品物をちょうど欲しがっているとも限らないのです。この問題を解決するには、誰もが必要と認める“共通のモノ”を媒介として利用すればいいという発想が、徐々に育っていきます。
それが塩や家畜だった地域もあれば、貝殻が人気だった所もあります。日本でも、古代には貝貨の存在が伝えられていますし、中国やアフリカでもカウリー貝が流通した事例があります。これらは一種の“プロト貨幣”と呼ばれるもので、まだ今のように公権力が保証するわけではありませんが、「これは持っていて損がない」「みんなが少なくともある程度必要とする」という社会的合意があったから流通し得たといえます。ただし、こうした物品は品質や数量を一定化するのが難しく、遠距離での大規模取引を想定するとどうしても不便が生じやすい面がありました。
次回はいよいよ「コイン」誕生の歴史です。
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