アバターを「装着」すること
beCAMingは、なぜアバターを使うことを「装着」と表現しているのか?
という質問をいただきました。
着用、操作、使用、変身、、色々あり得ますが、今のところ丁度よい表現として、「装着」を採用しました。今のところ丁度よい、というスタンスが大事で、言葉を選んだ理由とともにざっくりと説明します。
ClusterやVRChat、Zoomにお気に入りのアバターで出入りしています。イベントや会議、授業など。自分の素人作業での体験や、先生方、クリエイターやエンジニア(非常に強い学部生を含む)の皆様との交流を通じて、言語や文化の観点から、アバターのことを考えていました。
今のところ、2D&3Dを行き来できるアバターは、アナログな服のように「着る」道具でありながら、自己認識を含めて変身してしまうような「成る」ものであるという二つの性質を持っていると私は考えています。
「着る」でありながら「成る」という性質は、自転車によく似ています。
自転車は、「乗る」道具でありながら、乗り手が自転車に「成る」ことで運転し得るものです。これは言語学でいう中動態(能動態でも受動態でもない、古代ギリシア語などの態)的な道具であることを意識しています。
中動態についての参考書籍:
『中動態の世界 意志と責任の考古学』國分功一郎
『芸術の中動態―受容/制作の基層』森田亜紀
イヴァン・イリイチは自転車を、人間を支配しない丁度いい道具、コンヴィヴィアルな道具であるとして例示しました。(むしろ、多くの道具が、二つの分水嶺を越えていきがちで、例として挙げられるものの少なさに驚かされるところです)。
そして後年、スティーブ・ジョブズをはじめとする、デジタル時代のレジェンドたちは、インターネットを自転車に譬えました。
さて当時のイリイチは、もっともコンヴィヴィアリティな道具は、
自転車だとしている。ジョブスが社名をBicycleとしようと検討した
のも、イリイチから来ているに違いない。
――私のコンピュータ文化史 TOKYO1964 – TOKYO2020(杉山知之)
自分を侵すことはないが、境界が曖昧で、纏うような外皮であること。内部から自由に操作できること。私はここに一人しかいないが、いかようにも化身できる技術であること。そういうイメージに近い表現を探していました。
ということで、着るものであり成るものであるアバターの使用を、ニュアンスが近いと感じられる「装着」という言葉に託してプロダクトの説明に採用した次第です。
公開プロトタイピングをしているバーチャルキャンパス、装置としての「FLOW DHU」など、他のDHU学発プロダクトも、この中動態やコンヴィヴィアル・テクノロジーの考え方に影響を受けて企画されています。
DHUの学発プロダクト「beCAMing」の関連記事まとめはこちらです。
以上。お読みいただきありがとうございました。
蛇足ながら;
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。つたないものですが、何かのお役に立つことができれば嬉しいです。