海が見たい、人を愛したい。
※2023/11/02 過去noteを修正。
カバー画像はDALL-E3(ChatGPT)で新たに作成。
「怪獣のバラード」という曲が好きだ。
砂漠とか海とか怪獣とかキャラバンとか竜巻とか、ざっくりしたモチーフの組み合わせが好きなのだろうと思う。(もちろん、合唱曲として刷り込まれた郷愁みたいなものもあるだろう)
胸の痛むことがあると、口ずさんでいたりする。今もそう。
それで改めて歌詞を思い出して、あれ、と思った。
歌詞をそのまま読んでいってみる。
これは場所。砂漠で地平が見えているので、太陽が沈んでいくところはたいてい見えるものだろうし、たいてい「まっか」だろう。とにかく、西に目を遣る。
ここだ。ずっと気になっていた。ほとんどの生物にとって過酷と言える砂漠で、「のんびり」暮らせている。オアシスに住んでいるならそう表現されるだろうし。では水の要らない体なのか。「大きい」というが、多肉植物を食べるくらいで生き延びていけるサイズなのか。いずれにせよ、「のんびり」からは、生活が回っている余裕を感じる。
朝だ。東に目を遣る。
すぐさま隊商の影を想起するが、見えたわけではなさそうだ。鈴の音が聞こえた、とある。
そして、鈴の音が契機となって、叫んだという。なぜ「思わず」なのか。のんびり暮らせていた怪獣が、突然、呼び覚まされた何かがある。
これが叫びの内容である。
「海が見たい」と「人を愛したい」を並べている。なぜか。
のんびり暮らしていた怪獣は、少なくとも知識として海を知っている。見たいというくらいには知っている。なぜ知っているのか。前に出てきた通り、キャラバンにいるであろう「人」には会っていない。遠くの鈴の音を聞いただけだ。そこにいる人を追いかけていって愛するのではだめなのか。隊商に加わって海まで一緒に行くのでは、だめなのか。
たぶん、この謎を解かなければいけない。
「にも」という。人ではないと強調する。心があるのだから、怪獣だって海や愛に焦がれる思いがあるのだという。
怪獣が決意して、一番は終わる。さて二番へ。
竜巻が出てきた。なぜ涙なのか。それはこの時点では分からない。まっかな太陽は、冒頭で「しずむ」とセットだったので、西を見ているのだろう。
ということは、西を向きながら、太陽の昇る東へ歩いている。
一番の「心」と「望み」は同じと思ってよさそうだ。海が見たい、人を愛したい、と望んでいるわけだし。
最後の繰り返し。新しい太陽というのは、東の朝日か。
ここまで、まとめると、
砂漠でのんびり暮らせる力を持った怪獣は、海を知っていて、人を愛したいと考えている。キャラバンの鈴の音を聞いたことをきっかけにその思いが募り、砂漠を捨てて東へ歩いて行く。
かつて出会ったキャラバンが、海について教えたことがある、ということなのだと考えていたのだが、どうもそうではないような気がしてくる。キャラバンの所へ行こう、とはしなかったのはなぜなのか。隊商に加わり人を愛し海へ出よう、ではなぜいけなかったのか。
考えてみた。
怪獣は、もともと海を知っていて、人を愛していたのではないだろうか。そうすることが出来ない状況に陥って、砂漠にいたのではないだろうか。まっかな太陽、鈴の音、竜巻、涙、といったモチーフから私が感じるのは、輪郭のぼんやりした視覚だ。この怪獣(と呼ばれているもの)は、視覚が弱いのではないだろうか。
目をつぶされて砂漠に追放された「人ではないもの」として、オイディプス王の話を想起した。手元にあったギリシア神話にあたってみる。
すこし違った。砂漠を放浪したという記述は無かったしアンティゴネが付き添っていた。
それで思い出したのは、萩尾望都の短編『偽王』だ。小学館文庫『半神』に収録されている。
この話には目をつぶされた贖罪者が出てくる。
「怪獣のバラード」は、いちど人界を追われた者が帰っていこうとする話なのではないかな、と思うのだった。正気をさましたキャラバンの鈴の音。