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ちょうどいい道具、本当の学校/『コンヴィヴィアル・テクノロジー』を読む

XR領域のテクノロジーを活用して、大学をアップデートしたい。

『オンライン・ファースト: コロナ禍で進展した情報社会を元に戻さないために』で提言されているように、「元のシステムに戻さない!」に私は賛成します。

合理化されつつあるハード/ソフトと、より自然で快適なものを選び始めたユーザーの習慣をむやみに過去の状態へ戻さない。というだけでなく、思想・哲学においては人類にとっての理想へとむしろ立ち戻って、ラディカルな進化を遂げたいと願っています。

私は所属する大学で「DHU2025構想」と銘打って、未来生活を発明し文化を創造する大学をつくるためのプロジェクトを進めています。その実現のためには、アバター(身体)とデジタルキャンパス(空間)をセットで実装する、XR領域のテクノロジー活用が不可欠です。

また、本質的な意味でのカリキュラム・デザインと、学発プロダクトなどの事業開発への挑戦を同時に行っています。この文脈での取り組みはこちらに近況をまとめました。

学内の教員陣による研究実践も蓄積されているので、機会があれば大学紀要「DHU JOURNAL」などをご覧いただければと思います。

「DHU2025構想」についてはダイジェストの閲覧と、ドキュメントのダウンロードがこちらのサイトから出来ます。

さて、この構想を実現するために私たちが取り入れるべき重要な概念が、コンヴィヴィアリティ(Conviviality)ではないだろうかという考察を始めています。杉山学長との長い対話の中で得られた示唆であり、にわかに勉強を始めました。

ということで、以下は、オンライン・ファーストの時代におけるキャンパスのあり方、世界を幸せにする学校へのアップデートのため、「コンヴィヴィアリティ」という概念について勉強を始めたメモです。

主に『コンヴィヴィアリティについての道具』(イヴァン・イリイチ)、『コンヴィヴィアル・テクノロジー』(緒方壽人)についての読書ノートに過ぎず、仕事を進める準備として書き散らしたノートを、note記事としてやや成形して公開しておく、という類のものです。厳密な考察でもなければ、何かの宣言でもありません。

もしも、誰かの/何かの役に立つならば。

思想家 イヴァン・イリイチ

デジタルコミュニケーションの歴史、テクノロジーカルチャーの系譜、古今東西の人文学について、人並みの勉強に努めてきたつもりでしたが、つい先月まで「コンヴィヴィアリティ」という言葉について全く認知していませんでした。

世界初のパーソナルコンピュータともいわれる”SOL”などを開発したことで知られるリー・フェルゼンシュタインが『コンヴィヴィアリティのための道具』の実現のためにパーソナルコンピュータをつくったと伝えられているくらいですから、きっと視覚的にはその単語を何度も見ているのでしょう。概念として理解しようとするに至らなかったのは、その準備が出来ていなかったのだろうと。

教師は、準備が出来た生徒の前にやって来るといいます。ずっと取り組んでいたつもりの課題から、ふと目を上げると、「ずっとそこにいたのですか」という静かで厚い存在感で現れる巨人たち。

本質的にはちょっと違うでしょうけれども、私的にはこんなイメージです。

島田八段。

ということで、入門を始めた『コンヴィヴィアリティのための道具』、それを表したイリイチの思想、および『コンヴィヴィアル・テクノロジー』(緒方壽人)について、勉強のメモとしてこのnote記事をまとめています。

コンヴィヴィアル ≒ 自立共生的な

「コンヴィヴィアル」は、日本語では「自立共生」などの訳語が与えられています。元はラテン語のconvivereに由来し、”con + vivere” で、

"live together” 共に生きる を意味しています。

この概念を、道具が責任をもって限界づけられた現代社会を指す言葉として提唱し、未来に託したのが、思想家のイヴァン・イリイチ(1926-2002)です。

未来の道具は、人間がその本来性を損なうことなく、他者や自然との関係性のなかでその自由を享受し、創造性を最大限に発揮しながら共に生きるためのものでなければならないと指摘しました。

イリイチは、あらゆる”道具”について考えます。

産業主義的生産様式は、”教育”と呼ばれる目に見えない新商品を製造することによって、はじめて十分に合理的根拠を与えられた。教育学は”偉大なる技芸”(アルス・マグナ)の歴史で新しい一章を開いた。教育は、科学という魔術によってつくりだされた環境に適応する新しいタイプの人間を生み出す錬金術的過程の探求となった。 p55
自立共生的な社会は、他者から操作されることの最も少ない道具によって、すべての成員に最大限に自立的な行動を許すように構想されるべきだ。 p58

イリイチは教育や医療や交通といった制度や社会システムも「道具」という概念に包含し、そうした広い意味でのコンヴィヴィアルな道具の実現のために、政治や法といった社会のルールチェンジや、禁欲や豊かさの要請といった倫理的なマインドチェンジの必要性も説いています。

制度化された学校も、産業主義において人間の自立共生を阻む”道具”であると指摘し、「脱学校化」ということまで明確に考察しています。近代に設置された学校は、社会制度の維持のために求められる価値観を学習者に植え付け、訓練していくあり方(”教育”への名詞化)で設置されており、教師によってというよりも構造的に秘匿されたカリキュラムによってそれを実現している。

行き過ぎた産業主義により人間は道具(自らつくった技術や制度)に隷従させられており、道具を使っているつもりで使われている、とイリイチは説きます。

『コンヴィヴィアル・テクノロジー』①心の自転車

こうしたイリイチの思想を足場に、人間がこれからも持続的に生きていくためには、テクノロジーはどうあるべきなのだろうかを考察したのが、緒方壽人 著『コンヴィヴィアル・テクノロジー』です。

「コンヴィヴィアル」という言葉は、スペイン語では現在でも日常語として生きているのだそうです。例えば公園は子どもと大人たちが楽しく過ごす場所です。よそから来た異質なもの、限られた時間、相反しているものが共存しえたとき、コンヴィヴィアルだと表現されるそうです。メキシコシティには、「コンヴィヴィアル」と銘された大きな公園があるのだとか。

また、異なる人々が長い時間をかけて美味しい食事をしながら親しくなり、インスピレーションに満ちた会話をしながら時間が過ぎていく、というニュアンスで使われている文化圏もあるようです。

「共に生きる」という一言では表現しきれない、自律と他律のバランス、自分とは異なる他者との出会い、そうした他者と同じ場所や時間を分かち合うこと、といった意味と価値を「コンヴィヴィアル」は蓄えている。

イリイチが人間と道具との関係におけるコンヴィヴィアルな状態と対比しているのは、人間が道具に依存し、道具に操作され、道具に隷属している状態です。

コンヴィヴィアルな道具として、象徴的な例は自転車です。自転車はあくまで人間が主体性を持ちながら、移動能力をエンパワーするテクノロジー。「私」が使用が起こる場所になる中動態的な使用がなされ、自転車に乗る体になる。(参考:『中動態の世界 意志と責任の考古学』國分功一郎

そして、パーソナルコンピュータとインターネットは、人間性を取り戻そうとするイリイチの思想に影響を受けて生まれました。個人性が主体性を保ちながらその能力や創造性を最大限に発揮できるよう人間をエンパワーする。
スティーブ・ジョブズは、「コンピュータは人類最高の発明品だ。心の自転車とも言える。」と語りました。

ここで考えなければならないのは、イリイチの時代のテクノロジーが象徴したエネルギーや動力といった「物理的な力」ではなく、情報処理能力や自律性といった「知的な力」であることです。

ますます進んでいくIoTやAIの発展で、モノがより自立的に自ら感じ、考え、動き回る世界において、テクノロジーはもはや「道具」というより、自律性をもった「他者」といった存在に近づいていきます。

それらを使って生活する私たちと、テクノロジーの共進化によって個人の能力が拡張されていくという実感とは裏腹に、わたしたちは実は知らぬ間にテクノロジーに依存し、主体性を奪われているのかもしれないということには自覚的であるべきではないか、とイリイチを足がかかりに考える著者は説きます。

人間と道具の間にはそのような相反する関係がある。まずは、そのことを認識することが重要である。

『コンヴィヴィアル・テクノロジー』②二つの分水嶺

道具が人間の主体性を失わせることなく、その能力や創造性を最大限にエンパワーしてくれる「コンヴィヴィアル」な道具となるのか、もしくは、人間を操作し、依存させ、隷属さえるような支配的な道具になるのか、それを分けるものが「二つの分水嶺」です。

その道具が人間の能力を拡張してくれるだけの力を持つに至る第一の分水嶺と、それがどこかで力を持ち過ぎ、人間から主体性を奪い、人間を操作し、依存、隷属させてしまう行き過ぎた第二の分水嶺。この二つの間、不足と過剰のあいだで、適度なバランスを保つことが、わたしたちが主体性を失わずに扱える「ちょうどいい道具」の状態なのです。

道具の力が「二つの分水嶺」を超えて行き過ぎているかどうかを見極める基準は、「多元的なバランス」が保たれているかどうかを問う5(+1)の視点にあります。テクノロジーについて立てられた問いとともに挙げます。

・生物学的対価
 →そのテクノロジーは、人間から自然環境の中で生きる力を奪っていないか?

・根源的独占
 →そのテクノロジーは、他にかわるものがない独占をもたらし、人間を依存させていないか?

・過剰な計画
 →そのテクノロジーは、プログラム通りに人間を操作し、人間を思考停止させていないか?

・二極化
 →そのテクノロジーは、操作する側とされる側という二極化と格差を生んでいないか?

・陳腐化
 →そのテクノロジーは、すでにあるものの価値を過剰な速さでただ陳腐化させていないか?

・フラストレーション
 →そのテクノロジーに、わたしたちはフラストレーションや違和感を感じてはいないか?

これらの問いを見て、自分の胸の内を探り、私が所属するデジタルハリウッド大学の専門職大学院のコピー「そのビジネスは、世界を幸せにしているだろうか。」を連想しました。

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人間と共に生きる自律的な他者のような存在となったテクノロジーによって、改めて私たちは「人間とは何か?」と問われるようになっていきます。

このことを、恐怖に立脚して捉えるのではなく、固定観念からわたしたち自身を解放し、本当の意味で自立的に生きていくヒントと捉えてはどうでしょうか。

イリイチが示した二つの分水嶺の間で、自律と他律のバランスをとるためのテクノロジーが求められているのです。

『コンヴィヴィアル・テクノロジー』③ 手放せる道具

未来のテクノロジーは、「使い続けられる」道具であるだけでなく「手放せる」道具でもあるべきではないだろうか、と著者は提言します。テクノロジーが生み出した道具だけでなく、教育も、医療も、労働も、政治も、法も、本来必要に応じて「つくれる」そして「手放せる」道具だったのではなかったか、と。

必ずしもすべてを手放す必要はない。ただ、使うだけでなく、つくれるように、そして手放せるようにしておくこと。それこそが未来のテクノロジーに必要なことではないだろうか。 p198

未来のテクノロジーは、自然から逃れるためではなく、自然と共に生きるための道具であるべきであり、他者との関わりを断つためではなく、他者と共に生きるための道具であるべきです。

そしてテクノロジーそのものが自律的な存在となっていくなかで、人間と情報とモノと自然が「共に生きる」ためのテクノロジーの可能性が提示されます。

人間は、予測可能な閉じた環世界に留まるだけでなく、混沌とした偶然に満ちた世界に「自ら(みずから)」一歩を踏み出す生物です。そして、一歩を踏み出してみることで、そこに「自ずから(おのずから)」意味や価値が生まれる。

この「自ら」と「自ずから」の繰り返しの中で意味と価値が生まれていく実感こそが人間の自律性なのです。未来のテクノロジーは、それをサポートするものであってほしい。

おわりに:大学とは、冒険の拠点であるべきだ

コンヴィヴィアリティとテクノロジーについて考えるとき、やはり私はホワイトヘッドのこの言葉を思い出します。

大学とは老若の人ともどもが冒険を分ちあう家庭でなければなりません。

このことについては、こちらのnote記事に書きました。よかったら合わせて読んでいただければ嬉しいです。

以上、ここまで読んでくださってありがとうございました。

このnote記事は私が仕事のためにまとめた読書ノートを公開したものですが、ぜひ『コンヴィヴィアル・テクノロジー 人間とテクノロジーが共に生きる社会』を読んでいただければと思います。コンヴィヴィアルな(装置としての)学校、ひいては社会について議論し、実装する仲間が増えれば嬉しいです。

最後に、著者の緒方壽人さんにも感謝を申し上げます。多くの箇所を引用させていただきました。素晴らしい書籍を世に出していただき、本当にありがとうございました。

※記事カバー画像について

Arrows制作の大学院キービジュアル「そのビジネスは、世界を幸せにしているだろうか。」(DHGS the DAY 展示)より。


ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。つたないものですが、何かのお役に立つことができれば嬉しいです。