ラフティング世界選手権日本大会回想記⑥
最終日は午前中オープン・マスターズ、午後ユース・ジュニアのダウンリバーを行った。異なるセクションで尚且つ、上流下流で距離があったので、ボートの輸送とスタッフの移動・配置で最後まで気が抜けなかった。全てのチームがゴールしたと連絡があった時、まずは一安心だったが、その後の表彰式・閉会式のことを考えると全くのんびりは出来なかった。と言うのも、選手やIRFからのジャッジはほとんどが翌日空港に向かうスケジュールだったので、輸送の手配の確認、ジャッジの経費精算など全く仕事が終わっていなかった。結局閉会式にもほとんど出られなかった。IRF会長のスピーチで「これまでで最高のレース運営だった」と言うコメントをしてくれて、僕の名前や競技担当の大吾さん、セーフティのテルさんの名前を読んでいたが、3人とも閉会式にたどり着けずにいた。ただ男子オープンの総合の表彰だけは行った。テイケイを辞めるときに選手達と日本大会の表彰式でメダルを授与することを約束していたからだ。ブラジルに負け、準優勝だったこともあり、表彰台ではみんな「すみません」と言って泣いていた。「何言ってる、よくやった」とメダルを一人ひとりの首にかけた。
閉会式はそれだけしか出られなかったが、最後、選手達が会場を出るところは見送った。何人もの選手がわざわざ僕のところに来て、「最高だった、ありがとう」と声をかけてくれた。自分たちのチームのTシャツやユニフォームを持ってきてくれた選手もいた。本当に嬉しかった。
その世は選手達に混じって二次会、三次会と楽しみ、いつの間にか眠りに落ちていた。
翌日、選手達を見送りにバスの出発会場に行ったが、ここでも手配していたところと違うところに行きたいとブラジルチームが言い出して最後までバタバタだった。何とか彼らの希望の場所に変更する事ができて、ブラジルチームが胴上げしてくれた。
全てのチームを見送って、市役所でボランティアチームの解散式をしてその日はもう抜け殻だった。
一週間前、選手達がパレードしたときには幾重にも人が連なっていた駅前のアーケードも人っ子ひとり歩いておらず、静まりかえっていた。
翌日から関係各所への挨拶回り。大会期間中、各ポジションで頑張ってくれていたチームの責任者には挨拶に行った。
空飛ぶボートのオペレーションをしてくれていた西部では、初日の競技が終わって全部ボートの運搬を終え、エンジンを切り、忘れていた荷物を運ぼうともう一度エンジンを入れ直そうとしたら、もうかからなかったと言う話を聞いた。普段林業で使っている時はもっと重たいものを吊っているそうだが、こんなにも頻繁に輸送することはないからねということだった。レース中に壊れていたらと思うとゾッとした。とは言え、世界中を驚かせた空飛ぶボート作戦は成功した。
大会の運営をずっと一緒に準備してくれたのが、三好市役所観光課内に設置されたラフティング世界選手権推進室だった。始めは柿本さん・丹田さんの二人だったが、大会の1年前から谷川さん・長尾さんも加わり、他にも観光課の冨上さんも活躍してくれた。世界選手権の運営なんて僕自身初めてだったし、うまくいったこと、いかなかったこと色々あったが夜遅くまで分庁舎に残り仕事して、一緒に食べた夜鳴きラーメンは最高に旨かった。
この大会はラフティングを始めた頃からの親友たちと一緒に運営した。競技全般を仕切ってくれた大吾さん、セーフティチームを仕切ってくれたテルさん、事前練習の手配や急なお願いにも答えてくれたMark、会場MCで盛り上げてくれたヒサ。もちろん名前をあげたらキリがないのだが、多くの仲間たちの助けがあって無事に終える事ができた。
忘れちゃいけないのが、この大会の開催に向けて何年も粘り強く活動していた西村さん、彼女の存在もこの大会を呼び寄せるには大きかった。レース前、一緒に鹿野池(水の神様)にお参りしたのが功を奏したのか、大会の二週間前と二週間後に台風が来たが、レースの時は最高のコンディションだった。鹿野池には大会が終わって三好を離れる前に、一人でお礼参りに行った。
僕の人生の中でも、大きな仕事の一つになったこの世界選手権。
まだまだ書ききれないこともあるのだが、一旦この辺りで終わりにしようと思う。