便利と不便の”幅”
一昨日は日中でも氷点下近い冷え込みであった。
その影響か、朝はお湯が出ないという事態に遭遇した。記憶にない為、もしかしたら初めてかもしれない。
自宅の給湯器は北側を向いて設置されている。つまり、東西南北の中で、同じ気温でも日光が当たらず、一番寒い場所に位置する。対策として、お湯のタオルを給湯器に繋がる水道管に当てるという処置をしたが、中々うまくいかない。結果的に蛇口をお湯側にしてチョボチョボとお湯を出すことで事態は解決した。
昨日は朝9時過ぎまでお湯が出ない経験をした。
その後、食器を洗う為に出したお湯の温かさにはありがたみを感じた。そこでふと思う。人は不便を経験しないと、日常の当たり前のありがたみを忘れてしまうものであると。
2020年の年末に行った唯一の忘年会は、雲取山中腹にあるテント場での宴であった。外気温は-5℃の中、男4人はそれぞれのテントを張り、寝支度を整えたら1か所に集い晩餐の準備が始まる。火元はガスバーナー、アルコールストーブ、枝を燃して火を起こすことが出来るネイチャーストーブだ。それぞれクッカーを持ち寄り、スーパーで買った食材を協力しながら捌いていく。周囲は真っ暗な為、おでこには各自がヘッドライトで手元を照らす。
不便極まりない状況であるが、本当に楽しい。料理の美味しさもひとしおだ。その手間が美味しくさせているのか、5時間程の山行がそうさせているのか、標高の高さがそうさせているのかは分からない。そんなことはどうでも良い。
不便は時として大きな喜びを誘発する。蛇口からお湯が出ない、電気が使えない、屋外で寝なければならない。けれどもその逆境やその行動を成し遂げた時、大きな安堵を得ることもある。何故不便な状況に自身を追いやられた時、どこか喜びを感じるのか。それは人間の本能なのかもしれないし、通常とは違う状況に置かれたことによる何かなのかもしれない。
一つ言えるのは、そもそも人類の誕生時には上記の様な生活インフラの整った住居はなかったということだ。現代でいう、前述した様な”不便”は言い換えるならば人類誕生時により近い状況であるといえる。もしかしたら祖先が当たり前の様に過ごしてきた不便さを体感することは私達の奥底にある本能的な何かの部分と共鳴して、オリジナルに”少しだけ”近い状況へと立ち返ることが出来たことにホッとしているのかもしれない。これは厳しい寒さの中、自宅の空調で部屋を暖めてくつろぐ”ホッ”とするとは本質的に異なると言える。
また、前者の”ホッ”とから離れ、後者の”ホッ”とばかりに身を委ねていると本来人間が兼ね備えていたであろう野生的な勘が衰えることは想像の範囲内だ。もし、建築業者が野生的な勘を鈍らせていたらどうだろうか。もしかしたら、給湯器を陽の当たらない、一番寒い方角である北側ではなく、柔らかな陽射しの当たる東側であったら凍結しなかったのではないか。ふとそんなことが頭によぎった。
私達の遠い祖先から言わせてみれば、現代私達が感じる”不便”は決して”不便”ではなかったはずだ。何故なら移動する際に自動車を使うことは出来ないし、蛇口を捻ってお湯が出るはずもない。移動は自身の足、お湯を使うならば水を汲み、火おこしから始める必要がある。そう考えると、文明化が進めば進む程、人々の生活における”不便”の幅を広げていることになる。
ここで”不便の幅”という尺度を出してみよう。自宅から1km離れたスーパーへ買い物へ行くとする。交通手段は自動車、原付、自転車、徒歩の4種類あると仮定する。
自動車と原付を常用する人にとって、自転車と徒歩は”不便”にあたる。
逆に、常日頃から自転車と徒歩でスーパーへ行く人が自動車と原付を用いれば、それは”便利”に反転する。
更に、徒歩でスーパーへ行く人からすれば、自転車も原付も自動車も全て”便利”だ。
更に気象条件によってその”幅”はリキッドに変化する。冬であれば原付は動く”椅子”と化し、寒さに耐えなければならない”不便”となる。
もし、声だけで室内の電球が消せる時代ならば、電球を消す為にスイッチを押しに行く移動でさえも”不便”の範疇におさまる。タクシーに慣れてしまえば、バスは”不便”である。
生活の全てを便利という言葉に委ねてしまったら、退化のペースに拍車がかかる。
もし、生への充実を求めるのならば、時代を遡った生活様式の一時的体験は一つのヒントとなる。携帯電話の繋がらない様な”圏外”に滞在する、テントを張って屋外で寝る。もっと身近な所で言えば、自動車を我慢して徒歩で移動するなど工夫次第でいくらでもある。
上記にて定めた尺度を基準とするならば、現代において”便利”の幅は拡がり続け、”不便”の幅は日に日に狭まっている。”不便”は悪いことではない。むしろ不足しているくらいではないだろうか。無い物ねだりとは言い得て妙である。ならば無いに越したことは無いのだろうか。
違う。”不便”から”便利”に反転する瞬間をヒントにして、実は”不便”の中に転がっている楽しさを取り出してみるのだ。
今出来ることは、”便利”の幅を自身の手で拡げること。
私は現代的”便利”と原始的な生活の間に、解のない答えがある気がしてならない。