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私の履歴書#4 「裏日本」での高校生活

(2020年4月21日火曜日)

 「裏日本」という言葉は知っているだろうか。かつて東北の日本海側や、新潟県といった日本海側の地域を指す言葉だった。ニュースでも当時は普通にその単語が使用されていた。「裏日本では明日、大雪となるでしょう」みたいに。差別用語と批判されていつしか使われなくなったそうだが(今は日本海側と言う)、僕はその言葉とともに育った。

 確かに裏日本と言う表現が似つかわしい非常に厳しい環境で育った。「どのくらい田舎か」、「それによって(東京の学生と比べ)どれくらい機会の少ない環境に育ったか」そんなことは現在の首都圏で育った学生諸君には想像がつかないかもしれない。想像力の多寡のせいではない。自分と時代も環境も根底から異なる存在には、その存在について聞く機会がなければ気づく機会すらない。

 中学生の頃に高速道路(関越道)が新潟県に来たが、私の故郷六日町は開通が遅れた。(その後、1984年11月8日:湯沢IC - 六日町IC開通。1985年のこの日、関越トンネルが開通し、東京~新潟の関越自動車道が全線開通した。)東京- 新潟間を結ぶ上越新幹線は
1982年に開業した。いずれも超大物政治家、田中角栄の圧倒的な存在無しには新潟にでき得ぬものだった。

 田中角栄像が浦佐駅にある。僕の家から車で20分の距離だ。僕の高校(六日町高校)は浦佐駅から電車で三駅。僕の暮らした地域はド田舎にも関わらず田中角栄の選挙区、新潟3区として全国に名を馳せていた。全体的に田中角栄ワールド。(誤解を恐れずにいうなら)田中角栄のお膝元の地域に、田中角栄の全盛期に生まれ育った。総理大臣辞任後とはいえ彼の政界に及ぼす影響は圧倒的だった。

 何が田中角栄を地元の神のよう祭り上げたのか。彼の成し遂げたことについては功罪いろいろある。しかし間違いないことは、新潟の非常に厳しい環境の中で生まれ育ちそこから東京に行って新潟の雪国の厳しい人たちの声を東京に届けたことだ。その一点において明らかに雪国の人たちの英雄であった。

 新潟三区にまたがり田中角栄を後援する組織、越山会。あの地域に僕は育った。

 そんな裏日本、新潟の環境は東京と大きく違う。学習塾など存在しなかった。東京は当時から学習塾もポピュラーな存在だったと思う。調べてみると、当時首都圏では“受験戦争”と揶揄されるほど大学入試が苛烈で、おそらく1980年代ごろから三大予備校(駿台予備学校、河合塾、代々木ゼミナール)が全国展開を強めたが、私の地元では勉強を教わる場所は高校以外に皆無だった。農家の子女・子息が過半で、田んぼが広がっていた。

 その頃の僕は大学や勉強のことは何も知らない。その類の情報が目に入る環境ではなかったのだ。僕が「MARCH」という言葉を知ったのも2007年に東経大に赴任してからだ。東経大の同僚たちは「MARCH」の意味を知らない僕に言葉を失った。

 ミステリ小説では、雪の中に閉じ込められて電話線も切れ情報が遮断された“陸の孤島”の描写が登場する作品がある。

1980年代のインターネットもなく、閉ざされた田舎の中でまさしく都会の情報が遮断された(あっても断片的にしか届かなかった)“陸の孤島”でこの世に生を受けてから、10代の終わりまでを過ごしたのだ。

 閉ざされた田舎の中で、六日町中学の半分の学生はそのまま六日町高校に進学した。だから、受験勉強といっても気合いが入っている人ばかりではない。半分の同級生がそのままその高校に進学できるのだから。高校に進学しても塾など存在しない。では、高校の授業が良質かというと(もちろん授業を受ける僕が不真面目だったというのも多分に関係しているのだと思うけれど)、いい意味で記憶に残っている授業は正直一つもない。「あの先生のおかげで今の私がある」のような感動的な心に響く授業を展開してくれた先生の思い出も一つもない。

 学業に関して言えば不真面目な生徒ではなかったが、真剣に学ぶ高校生では決してなかった。ときには授業を勝手にサボって、親にも言わずに車窓の移りゆく風景をぼんやりと眺めながら電車に揺られた。1時間30分も電車に乗ると柏崎海岸があり海で遊んだ。また、スクーターの免許を取っていたので、やることがないときはひたすら遠くに行っていた。ただ、スクーターで遠くに行っても行き着く先にも田舎しかなかった。

 そんな煮え切らない僕と六日町高校を結びつける唯一のものはバスケットボールだった。勉強のことはあまり印象がないが、その代わりバスケットへの思い入れは人一倍強かった。小学六年生の後半から始めたバスケットボールの魅力に取り憑かれて、まるで魔物に魅入られたかのようにハマっていたから、我ながら上手かった。“バスキチ”(バスケットボールキチガイ)と呼ばれていた。寝ても覚めてもバスケットボールのことばかり考えていた。その甲斐あってか、背は低いながらも中学生の時はレギュラーでガードを任された。チームはとても強かった。

 高校に入っても、迷うことなくバスケット部の扉を叩いた。そこで出会ったのが、僕が入部する頃と時を同じくしてバスケ部顧問に就任した元日本代表候補の体育の先生。筑波大学学生時代、超有名な日本代表選手とコンビを組み雑誌にもしばしば登場していた。高校時代には一試合単独で70点くらいを叩き込んだ記録保持者。そんな半端ない化け物のような人が顧問だった。その背景には、当時新潟で国体が開催されることが決定されたことにある。半ば暗黙の了解のように、当時の国体は開催県が優勝するのが不文律だった。そのため、国体が近くなると開催県には実力が折り紙つきのアスリートが入ることが伝統だったのだ。実際、国体はつい最近まで開催県がずっと優勝し続けていた。僕の高校入学の時期がちょうどその時期だったのだ。

 高校入学後、バスケットボール部に入って二年生にはレギュラーではないながらもキャプテンになった。「高校生活=バスケットボール」。そう言っても過言ではないほどバスケットボール一色の生活だった。

 そんな、高校入学時は好きだったバスケットボールだが、残念なことに引退する頃にはあまり好きではなくなっていた。「勝つための部活」に疲れてしまったのかもしれない。最後の大会で負けて引退する時、涙は流れなかった。胸中を占めていたのは「やっと終わった」というある種の開放感だった。中学生の時、勝てると思った試合で逆転負けしてボロボロ泣いていた僕が見たら、びっくりしただろう。それくらいバスケットへの想いは冷めていた。純粋に好きでバスケットボールを始めたのに、気がつけば人間関係の調整役に終始している自分にも嫌気がさしていたのだ。

 正直なところ僕は高校生の時にあまり学校から学んだ記憶がないが、なぜか僕の周りには歴史的な人物が登場していた。そういう意味で僕はとても運が良かった。バスケットボールにしても日本代表候補の一流選手が顧問についてくれて、「勝つ」ために最強のトレーニングを授けてくれた。当時日本代表の憧れの選手を、友達だからと言って高校に連れてきてプレーを見せてくれた。すごい人たちが次々と田舎町にやってくる高校三年間だった。

 『火垂るの墓』の原作者、野坂昭如が「打倒田中」と出てきた。実際に目の前で野坂氏が演説しているシーンが連日全国のテレビに報道された。選挙中に野坂氏が拠点としたアパートが僕の自宅の至近距離だったので、何度も見かけ、短時間だが話したこともある。今、眼前で進行しているのはすごいことだ。そう感じて興奮した。

 田中角栄の演説もなぜか目の前で見たことがある。今思い返せば非常に貴重な経験。超一流歌手が聴衆と共に作り上げるコンサートのようだった。僕は学校ではモノマネをして笑いを取れるくらい田中角栄の真似が上手だった。学校の授業からはあまり学ばなかった。しかし、授業外は学びの宝庫だった。都会の人々が過酷な受験戦争に飲み込まれていく中、僕はあの地でしか得られない独特な学びを得ていた。そしてそれが僕「独特」の文化を培った。

 友人との出会いにも恵まれた。狭い世界のことだ、友人といってもバスケットボールのチームメイトとクラスの級友。数え上げればそのくらいで私の周りの友人は完結した。

塾がないからある意味で平等な地域だった。国税庁の統計によれば「2018年度の日本人の平均年収が440万7000円であるのに対して、東大生の親の62.7%が年収950万円」であるそうだ(Newsweek、2018年5月9日)。年収と学歴が比例すると言われる所以だ。この問題は「塾」の存在を抜きに語ることができない。

 今の東京などでお金がある人の成績がいい背景には塾の要因が大きい。お金がある人の子供はたくさんお金を払い、ノウハウを持った高い塾に通い、いい成績をとって偏差値の高い大学に行く。不平等なルートが明らかに存在する。

 僕の育った世界ではその類の教育格差は存在しなかった。中高一貫校も私立高校も存在しない。そもそも高校自体の数が少ないし、塾もない。ある種の平等だった。高校の勉強をしっかり取り組んだ人がいい成績をとった。そうやって勉強を頑張った層が偏差値的にいい大学に入った。

 一方で地域的に農家が多く、親が勉強を推奨しない家庭も多かった。僕のいた地域では「一生懸命勉強する」=「実家を離れる」ことだった。子供が地元に残ることを好む親たちは、勉強しろと言わないものだった。

 幸運なことに私の両親はとても教育熱心だった。小学校の教員だった父親が、筑波大学での1ヶ月の研修会から帰ってきて一言「英語の先生たちは全部英語で会話してたぞ。これからはそんな時代が来るんだろうな」そう独白した。

 その地域の親でそこまで先を見据えたことを言う大人は稀有だった。

 当時新潟県は大学進学率47都道府県中46位。その新潟県の中でも僕の故郷は最も学力の低い地域だった。しかし幸運にも頭のいい友人が多かったように思える。

 高校の中で成績は上の下。どう頑張ってもトップ層にはなれなかった。高校一年生の時同じクラスで、仲の良かった友人で東大に現役で入ったやつがいた。彼の家に行って屋根の上に登って、星を見ながら夜通し話していて一緒に風邪をひいた。

 僕は途中から数学と理科がわからなくなってきたが、彼は理数系のクラスに入った。一緒にいるときはすごくふざけているのに、ひょいと東大に入って行った。まるで足元に転がっていた小石をまたぐかのように、簡単そうに。僕はそれを見て、「本当に頭がいいやつが見てる世界は違うんだ」と異世界人を見た気がした。同じ日本人で同じ高校なのに、あたかも別の文化との接触であるように。いろんな頭の構造の人がいると学んだ。

 彼とだけの話ではないが、高校時代のそんな何人かとの出会いを通して僕は自分が天才肌ではないという事実に向き合わされた。凡人だ。

 どうやってもテストでも彼らのような点数が取れない。「よし頑張るぞ」と一念発起しても及ばず、自分は凡人だと思い知らされた。「凡人文化」と「秀才文化」という二つの文化が存在するなら、僕は秀才文化という一つの異文化に接触した凡人文化の住人だった。

 「努力に勝る天才なし」父親からずっと言い聞かされていた。自宅で書道でも繰り返し書かされていたほどだ。その頃は「うるさいな、わかっているよ」と反抗したくなっていたが、後で「僕のような凡人こそ、この言葉が大切だな」と内省するようになった。

 凡人のまま努力しなければ、今のような自分にはなっていなかっただろう。

 その後受験勉強を始めたが、僕は大学入試を甘く見ていた。

どこか受かるだろう。兄はいろんなことを突き詰めるタイプなので、高校の時部活を途中でやめて勉強に専念、現役で国立大学に進学した。「だから自分も大丈夫」そう楽観的なまま部活を引退まで必死でやった。インドネシアで外の世界を見た感動が忘れられず、憧れの「東京」そしてその先の「世界」を気持ちだけは目指していた。

 大学受験前の思い出といえば、獨協大学外国語学部英語学科が指定校にあった。運良く他に希望者もなく「よっしゃ!これで東京に行ける」と申し込もうとした。しかし評定平均が0.1だけ足りなかった。必要な評点は4.0以上、僕は3.9。絶望した。「0.1くらいなんとかして下さいよ」今思えば非常にバカみたいなお願いを本気でしたが、当然却下された。それでも粘ったら怒鳴られた。バカだった。

 あの時もし当時0.1足りていたら。そんな有り得ない仮定がふと頭をよぎることがある。そうしたら、出会う人も環境も違う私は、今とは違う場所にいただろう。そう考えると、0.1足りなくて本当に良かった。

 すったもんだの末、僕は一浪の末に大学に入るがそれはまた別の機会に語る。

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