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私の履歴書#19 国外居住①タイ

(2020年8月22日土曜日)


 2011年~2012年度、二年間外国に居住した。東京経済大学に籍を置きながら「国外研究」という制度を利用した。居住地はタイのバンコク(だけのはずだった・・・)。ここでは細かい研究の話は抜きにして、これまでに語ってきたことの流れで記す。

 本題に入る前にどうしても触れておかねばならないことがある。2011年3月11日、東日本大震災。あの地震の瞬間は大学の7階の会議室で教授会の最中だった。あまりにも揺れが激しくて「これ、建物崩れるのでは」と同僚が思わずつぶやいたほどだ。まるで巨人の手で建物を掴まれてゆさゆさと揺さぶられているかのような激しい揺れだったのだ。その夜は帰宅難民となってしまい、大先輩同僚のお宅にお世話になった。家族に連絡が着いたのはよく朝のこと。昼すぎに電車が動き、帰宅すると・・・ドイツ人の妻が大騒ぎしていた。「早く逃げないと。被ばくする!」福島第一原発が電源喪失していた件は知っていたが、テレビニュースを見る限り何とか制御されているようだった。僕が「落ち着いて。大丈夫」と答えると、彼女はドイツに住む原発専門家の友人との通話をスピーカーオンにして、僕がより理解できるように英語で話し始めた。「どう見てもメルトダウンしているとしか考えられない。」彼の見解は当時の官房長官枝野氏の会見とは全く異なるものだった(結局ドイツ情報が正しかった)。そして間もなくドイツ外務省から妻宛てに避難勧告メールが届いた。そう言われても、既に4月5日のバンコク行きのフライトを予約してあったし、引っ越しの準備なども何もしていない。困り果ててしまった。相反する意見の違いの間に挟まれることをことわざで「板挟みになる」というが、妻と大学という二枚の板に挟まれた。決断する前は、割れつつあるクレバスの裂け目に両足をそれぞれ乗せて体が引き裂かれるような葛藤に苛まれた。しかし時間は待ってくれない。まるで足元の氷の割れ目が広がっていくように、決断の時は迫ってくる。

結局、大学に特別に許可を得て、大慌てで準備をして家族でタイに旅立った。

地震発生から出国までの5日間はもう滅茶苦茶。周囲の人々が妻のメルトダウン・パニックを「何ておおげさな」と冷ややかに見ていた。海外への引っ越しには様々な手続きを伴うが、彼女の立場に立って急遽出発する事情を話す僕への視線も概して冷ややかだった。日本に暮らす外国人の気持ちが少しわかった。

タイでは、バンコクのチュラロンコン大学教育学部の客員教授 (Guest Professor)としてお世話になった。チュラロンコン大学はタイ最古の大学であり最高学府として名高い。別名 Pillar of Kingdom(国王の柱)とも言われ、卒業式は国王自らから学生一人一人に卒業証明証を手渡しされるほど期待を受ける、まさにエリートたちの学び舎だ。彼らとの交流は思い出深い(英語だけで事足りた)。

学部長室の隣に研究室を準備していただき、秘書の方々からもタイの事情を様々教えていただいた。教授陣はまさに「教授」らしい振る舞いをされていて近づきがたかったが、秘書さんや学生さんたちは、最初の緊張がとけてくると親しく接してくれて嬉しかった。まるで氷の壁が溶けるように、赴任当初に感じていた目に見えない壁が薄くなっていくのを感じた。「ここに2年いれば、結構まとまった教育調査ができる。」と確信めいた手応えがあった。

 僕はバンコクにネットワークもないままに赴任したので、2年間を半年ずつ4分割し、①ネットワーキング ②予備調査 ③本調査 ④まとめと計画した。

ネットワーキングは予想以上に手間取った。チュラロンコン大学客員教授の肩書きは、信頼を得るにはとても有利だったがそれだけでは足りなかった。タイは日本以上に「人の紹介」が重視されるネットワーク社会。新しく人と会うときには、紹介やツテの有無が重視され、そのツテを僕は備えていなかった。

 さらに僕は最初、タイ文化に無知であった。それまでにネパールやインドで調査を行った際には、事前に電話をして直接訪問すれば大概何とかなった。しかし、そのやり方が通用しなかった。「なぜだろう」と思い悩んでいる内に早くも数か月が過ぎていた。正直イライラしていた(カルチャーショック状態)。ある時親切な同僚が見かねてアポの取り方の見本を示してくれた。そのやり方は僕が思うよりずっとフォーマルだった。タイ式のアポの取り方を知らずに訪問を繰り返した僕の行動は、タイの人からはまるでビザを持たずに入国検査を突破しようとする旅行客並みに無謀な挑戦にみえていたのかもしれない。

さらに、「トップ大学教育学部の教授に調査されることへの警戒心が強い」とも教えてくれた。言われてみればその通りだ。そこでチュラ大の学生の出身校を学生と一緒に訪ね、学生が作ってくれた文書を提示すると難なくOKが出た。それ以来僕はいつも学生を連れて廻るようになった。彼らはタイのことについて惜しみなく情報提供してくれたので、もはやどちらが「先生」かわからない状態であった。

 彼らのおかげでようやく調査のネットワークができて、「さあ、下準備は終わった。本格的に調査をはじめよう!」と思った頃に悲劇が起こった。

 タイ史上に残る大洪水がバンコクに襲い掛かったのだ。約230万人以上の生活に影響を与え、4,000億円弱の経済的ダメージを与えたと言われる凄まじい洪水。アフリカの小国1カ国の資産価値が約4,000億円であることを鑑みると、被害の甚大さは分かりやすい。

 このせいで、タイの教育機関は3~4か月完全休校となり、教育調査どころではなくなってしまった。そもそも暮らした地区のすぐ近くまで洪水が押し寄せ生活自体が危うくなってきた。日本のテレビニュースでも甚大な被害が連日トップニュースで報道された。息子たちの通う学校も休校。

 東京経済大学の関係者からも「近隣国への避難」を薦められ、向かったのが、知り合いの多いネパールであった。あくまでも洪水が落ち着くまでの一時避難の予定だったが、洪水が長引いて結局2か月ほど滞在した。当時長男は中3で二男は小4。遊び惚けさせるわけにはいかず、知り合いの学校に体験入学させていただいた。僕は友人を通じていろんな方を紹介していただきひたすらネパール事情に耳を傾けた。日本から学生を引率してくるときには聞けない貴重な情報を豊富に得ることができネパールの面白さにさらに魅了されてしまった。

 バンコクの状況は年末には落ち着き、一時避難は終了。家族で帰国・・・のはずが。

 ここでさらなる大事件が発生した。一家の一大事。

 中三の長男がバンコクへの「帰国」を拒否したのだ!

 「僕はネパールがいい。ここに残る!」

 これには我が家族のみならずネパールの方々やバンコクの学校の先生を巻き込んだ騒動に発展した。ただ、よく考えてみると彼の気持ちも理解できた。そこで僕は彼の味方となりバンコクの担任の先生やネパールの学校の先生と必死の交渉を試みた。しかし結論として、「このままネパールに残ると在籍するバンコクの学校での出席日数が足らず義務教育を修了できないまま終わる。」と告げられた。長男には「中卒の資格が取れなくなるみたいだよ。形式的にでもいいから帰国しよう。卒業資格を得たらまた戻ってくればいい」と説得すると最後は素直に応じた。そして文字通り形式的に帰国し卒業資格を得た途端に一人ネパールに戻って暮らし始めた。彼の脳内で何かが破裂してしまったことは明らかであった。思えば夏休みにネパールに旅をさせた頃から予兆はあったのであるが。

彼の夏休みネパール旅➡http://yoshikinepal.blogspot.com/2011/11/blog-post_2159.html

 妻は、あまりにも早く訪れた長男との別れに、見送りの空港で泣き崩れた。ドイツ人として日本で産み育てた我が子を、タイの空港でネパールに見送る。これほど奇妙な別れを素直に受け入れろと言う方が無理であろう。しかし当時の写真を見返すと、空港で彼と肩を組む僕はなぜか満面の笑顔であった。

 この時には、その数か月後に、まさか僕までもが妻や二男を連れてネパールに暮らすことになるなどとは夢にも思わなかった。

(続く)

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