関昭典の研究室#16 東京へ転職
(8月10日月曜日)
県立新潟女子短期大学での仕事は、よき学生たちに囲まれて楽しかった。日本海から徒歩5分、最高の立地に広い中古物件も購入し、僕の人生はもう一生新潟で暮らすだろうなと目処が立った。
まるで自宅前の凪の時間の日本海のように、僕の人生は安定し始めていた。毎年の授業内容も確立してきたし、研究活動にも手ごたえを感じていた。大学内での居場所も確保しつつあった。周囲の人々から見たらその安住地を抜け出して何処かに移動する理由は何も見つけられなかっただろう。
しかしその頃、まるで台風が襲来する前兆のように僕の心はざわつき始めていた。「何かマンネリ化してきたな」と感じていたのだ。
成果が見えてくると作業化してくる。生徒が変わるだけで毎年同じようなことをすれば、例年通りの成果が出ることが見えてきてしまうからだ。最初は大きな感動を伴っていた成果も、繰り返している内に作業化し始めていた。「何か新たな視点が必要だ」と若干の行き詰まり感をぬぐい得なかった。
さらに在職年数が進むに連れて、任せられる作業が等比級数的に増加していたことも理由の一端にあるのかもしれない。
それまでの僕の人生は「新しい世界をみてみたい」というモチベーションに突き動かされてきた。自分自身の進路選択によって、まるでたまごの殻を破るように少しずつ”自分の周りの世界”を拡大してきた。その拡大劇が、安定を得たことで「ここで終わりなのか」と漠然とした寂しさを感じていた。
春に咲くたんぽぽの綿毛が横切るように、「東京経済大学の教員募集」がふわっと僕の視界に入ったのはそんな時だった。インターネットだったか人づてだか今となってはもう思い出せない。大変失礼な物言いになるが「魔が差した」としか言いようがない。
ふと「応募してみよう」と何となく思い立ったのだ。普段だったら目の前を通り過ぎるものを見送っていただろう。それまで僕は大学教員の職についてから一度も他の大学に応募したことがなかったし考えたこともなかった。
もちろん東京の大学の教員になるのはとてつもなく難しい。とてつもない実力と運が要求される。しかし募集要項をみて僕の脳味噌に電流が流れた。募集項目に踊る応募条件と記載されていたリンクの先にあった情報は、「呼ばれている」そう勘違いしたくなるほど僕の今までやってきた活動とぴったりと合致していたのだ。
高校・浪人時代、「東京に出たい」という恋い焦がれる思いで勉強した情熱が蘇ってきた。東京の大学に合格しつつも母の涙で状況を断念した後も、東京への憧れは僕の胸中で燠火のように燻っていたようだ。その思いに一気に火がついた(詳細は、「関昭典教授 私の履歴書#5 浪人生」https://akinoriseki.blogspot.com/2020/04/blog-post_28.htmlを参照)。
しかし僕には家族がいた。もう1人で好き勝手に”冒険”をするべきではない。
長男は小学4年生、次男は小学校に入学する頃だった。長男が小学校は試験で国立大学付属の小学校に努力して入学して充実していることをよく知っていた。「子供たちにも中学校まで一貫の新潟の学校を辞めさせて、東京にいくぞとは言い出せない!」もう1人の僕はそう叫び続けていたが、なぜか振り切って東京経済大学の募集にエントリーしてしまった。一回だけだと言い聞かせた。
今だから告白するが(といいつつ以前の履歴書でも少し触れたが)新潟生まれ新潟育ちの田舎者の僕は東京のことをほとんど知らなかった。文字通りほとんど。
MARCHという大学群の名称も知らなかったし、山手線以外の電車のラインは知らなかった。そんなことも知らないままの、「東京に出たい」という情熱に突っ走った応募だった。
そんな軽いノリで始めたが、いざ書く段になると真剣だった(結構な量の書類を作成した覚えがある)。提出するものを適当に書き散らすことは失礼にあたる。応募して一息ついた頃に一次選考通過の連絡を受け取った。
一次選考後に待ち受けるのは、東京経済大学に直接行っての面接だ。東京まで呼ばれるということはチャンスがあるのではないか、と俄然やる気になった。
「やるからには真剣。中途半端は今までの自分にも相手にも失礼」が僕のモットーだ。本気で取り組んだ。
英語での発表は丸暗記。アプリに音声を入れたものを、約2週間ウォーキングをしながらひたすら聞いて完璧に覚えた。今から14年も前の話だ、英語の読み上げアプリは当時まだ珍しかった。これで僕自身が英語の暗記をやり切った経験があるから、英語プレゼンテーションコンテストなど、学生が英語の暗記に「無理だー」と泣き言を上げる時も、本当にやる気ならできないわけがないと冷静に見ている。
面接なら質問が出るだろうと予測して、想定されうるQ&Aを作成してそれも丸暗記した。今振り返ると当時の情熱には脱帽する。
面接当日、かなり早めに大学の最寄駅についた。喫茶店に入り、目を閉じてひたすら時間まで音楽を聞き続けて集中力を極限まで高めた。まるで試合直前のオリンピック選手さながらだ。あの時何度もリピートした「栄光の架け橋」は今でも口ずさめる。
ついに面接本番。緊張のあまり内容が一箇所飛んでしまってその一箇所だけ原稿をみた。だが「人事を尽くして天命を待つ」という慣用句があれほど当てはまる瞬間はない、そう言えるほどベストを尽くした。やり切って新潟に帰った。
ちなみに家族には面接が終わったこの時もまだ言い出せず、「大事な学会の発表」と偽っていた気がする。つまり、この時点でもまだ家族は東京に行く可能性などつゆ知らなかったのだ。
事態が進展したのは10月ごろ。東京経済大学から「採用に向けて」と連絡がきたのだ。 家族はさっぱりと単身赴任だね、と告げた。この時点では僕と一緒に東京に来るつもりは1mmもなかった。
そして年の瀬に内定通知。当時勤務していた新潟の大学には次年度の教員を探す関係で、すぐに伝えなければならない。大学からもびっくりされてしまった。
東京の国分寺駅前にアパートを借りて、新潟と東京の往復生活が始まった。
しかし、東京に来て実際に仕事を始めてみて、国際結婚家庭なりの新潟での家庭生活と東京での仕事の両立は厳しいことがわかってきた。入ってみなければ分からない想定外業務がいくつも出ていたのだ。調査不足の行き当たりばったり決断が祟った。
実は一年で辞職するかどうか本気で悩んだ。おそらく家族以外誰も知らないことであるが、東京の大学に内定するかどうかの頃、家族の様子を見て一気に不安が高まったタイミングで、自宅近くの大学で教員公募を見つけた。迷った末にこの大学にも応募書類を提出していたのである。そしたら、東京赴任後に一次選考合格、最終選考通知が届いた。両親に話したら、特に母親は興奮し、面接に行くべきだと何度も連絡してきた。私自身も、面接に行って合格した方が家族のためだと思った。この時ほど迷ったのは人生初であった。単身赴任先のアパートで、迷いすぎて夜中に一人くじを作った。引いたくじは、母親の助言と同じであった。しかし、考え抜いた結果、先方に面接辞退のメールをお送りした。母親は大変落胆した。
そんなこんなで東京に単身赴任を続けることにした。70歳とかまで新潟と東京の家を往復する単身赴任生活が続くのかとクラクラしていた。このままだとダメだ・・・。詳しいことは伏せるが、息子の学校のことも重なって僕は「東京に家族を呼び寄せる作戦」を決行。
もちろん家族からするといい迷惑だ。何しろ相談すらされることなく、まるで夕飯のメニューを告げるかのように突然「東京の大学に受かったから来年から東京で勤務する」と振り回されている側である。
拍車をかけるように、家族は新潟ラブだった。奥さんも子供たちも新潟が超大好きで、わざわざ離れるなんて大反対の合唱だった。
大反対の声をかき消すべく、僕は東京の素晴らしさと、新潟の世間の狭さをひたすら伝え続けた。しかし、妻は僕のプロパガンダにも洗脳されることなく冷静(冷酷?)だった。国際結婚のネットワークを通じて「東京の学校に行ったらいじめられる」「東京の家は狭い」と東京ネガティブ情報カード次から次へと切ってきたのだ。
それでも根気よく説得するうちに「インターナショナルスクールならいいわよ」「家は150平米以上なら」・・・。そのような強硬な条件をいくつも提案しつつ、妻が条件付きで歩み寄ってくれた。
だがこの条件はかなり厳しい。インタナショナルスクールの授業料は目玉が飛び出すほど高額だし、150平米以上という広い家は東京で家賃を払うには難しいのだ。それでもせっかく妥協して新潟から出る決断をしてくれたのだ。まるでかぐや姫に命じられて蓬莱の玉の枝や火鼠の皮衣を探す男たちの気持ちになって必死になって探した。
この条件をクリアしさえすれば家族と東京に住めるんだ。僕は真剣だった。
横浜国立大学附属横浜小学校なら国立附属間転校ができるという話を持ちかけられて横浜(根岸)に住むことを決定しかけた。物件を探して家族で見に行った(家族は旅行気分)。しかし、いざ横浜で契約直前まで行った物件を行くと、人が長らく住んでいなくて、猫が大量発生していた。その猫屋敷の帰り道、電車で東経大に行こうと向かったらいつまで経っても大学のある国分寺につかない。遠すぎたのだ。電車の中で妻の口から「さすがにこの距離の通勤は厳しいのでは?」と言う言葉が出てきた。頷くしかなかった。結果、せっかく学校間でお膳立てしていただいた転校話を辞退して大変なご迷惑をおかけした。
その後も調査を続ける中で、無理に無理を重ねれば支払い不可能ではないインターナショナルスクールを見つけ、その近くに物件も見つけることができた。家族を必死に説得し、ようやく東京に連れ出し作戦は終了した、かに思えた。しかし、息子が新しい学校に通って数か月後のある日、勤務中に彼から電話がかかってきて思いつめた声で告げられた。「さすがにこの学校はやばいよ。」事情を聞き調査すると彼の言う通りであった。奈落の底に突き落とされた気分だった。
さらに調査を進めた結果、海外の帰国生を中心に受け入れる学校を発見し、二人の息子ともども編入させていただけることになった。今も暮らす自宅から車で10分の場所に位置する学校だ。これでようやく家族東京大移動が一区切りついた。
以上のように、子どもの頃から夢見た憧れの東京での暮らしのスタートは、決して輝かしいものではなかった。身から出た錆。家族に相談もなく気分に任せて東京の大学に応募した付は、二度と繰り返したくないほどおぞましい経験として跳ね返ってきてしまったのである。