私の履歴書#15 「アナザーヒストリー」<異文化コミュニケーション>
(2020年8月9日日曜日)
これまで、僕の大学生活並びにその後の新潟での職業人生を数回に亘って振り返ってきたが、これは私の履歴書の一面に過ぎない。今回は、現在の私を形成することとなった重要な人生経験を取り上げる。キーワードは「国際交流」「異文化コミュニケーション」
新潟大学の学生時代、インドやネパール、モロッコ、ヨーロッパを旅した私は、さらなる「新たな刺激」を欲していたが、しかし一方で「モロッコ・カーペット大事件」で追った110万円の借金を背負って手も足も出なかった。海外旅行はもう無理。バイトで貯金を貯め、一方で勉学の成果も残すという学生にとっては大変酷な状況に身を置くことになった。当時の僕は、冗談抜きで「人生崖っぷちだ!」と頭を抱え込んでいた。一方で、外国や「外の世界」への憧れの気持ちがやむことはなく、「何とかしなければ」という気持ちが次第に強くなってきた。
一旦大学一年次に時を戻す。私が大学に入学後間もなくして、マレーシアからの留学生と友達になった。英語の授業でたまたま席が隣になったのだ。どちらから話しかけたのかは覚えていないが、私は彼と仲良くなった。学校内に外国人がいるのは田舎育ちの私にとっては大事件。彼の一言一言が新鮮であった。大学の学業にはまったく興味が湧かなかったが、彼から得られる情報は何にも代えがたかった。だから僕は彼にくっ付いて回った。彼の存在は、焦燥感一杯の私の学生生活(前半)の唯一の救いだったかもしれない。が一方で彼にとっては迷惑な存在だったかもしれない。というのも彼は当時マレーシア首相、マハティールのLook East(東を見よ)政策の一環で国費留学してきた超エリートだったからだ。私のような一般学生とは格が違うのだ(ということも気が付かなかった)。
彼との親交を通じて、「物事の多面的解釈」の手法を学んだ。親しくなって来るにつれて話す内容も深くなっていくと同時に、これまでには経験することの出来なかった「価値観の相違」のようなものを感じるようになったのである。彼と一緒に肩を並べて歩きながら「同じ景色をみているのに、なぜ『見え方』が違うのだろう」と思ったことが何度もあった。(ちなみに彼とは今も親交がある。彼は日本人のように日本語を使いこなす。)
モロッコから帰国した頃になると、工学部の彼は実験などで忙しくて交流の機会は減った。しかし、私は彼をきっかけとして、新潟大学内の留学生と交流を始めるようになった。ちょうどその頃、大学のすぐ近く「国際交流会館」が完成し、留学生の多くがそこに暮らすことになった。私の足は自然とそこに向いた。そこで多くの留学生と知り合ったのであるが、何よりも驚いたのは、彼らは皆祖国を代表するエリートばかりであったということだ。普通に会話をしているとただの「いい人」だが、友情を深めて生活背景に話が及ぶと、一人一人壮絶な経験を得て日本への留学切符を掴んだ”逸材“ばかりだった。彼らの口から出てくる彼らの祖国の話は僕の知らないことばかりで学びの宝庫であった。
文化、宗教、貧困、差別。彼らとの交流のおかげで、これらの観点に全体的に興味を持つようになった。「アパルトヘイト」「南京大虐殺」「在日韓国・朝鮮人差別」「日系ブラジル人」「食の多様性」などなど、彼らがいなければ見向きもしなかったであろう話題に目を向けることができた。
その延長線上に、今の私の妻(ドイツ人)がいる。私は留学生との交流の一環で参加したイベントで現妻と出会い、現在に至る(プライバシーに関わるので詳細は省くが、テレビ東京系列「私が日本に住む理由」に詳しく取り上げられている)。彼女との暮らしは、それだけで数冊の本になるくらい、『ひろく、深い』「異文化」コミュニケーションであった。結婚式の際、仲人をしてくださった米山師匠がスピーチで、「現代の国際結婚は、昔の広島と新潟の人の結婚と同じようなものだ」と述べ、結婚に反対する僕の両親の気持ちを和らげてくれたが、その後実際に私が経験した文化差は、私の想像を絶していた。時には「これが同じ地球上の人間か」と思うような果てしない文化差を感じることさえあった(相手も同じように思っていたことであろう)。
暮らしを共にする中で次第に顕在化する大きな文化差。この差を埋めるためには当時の私の知識が経験は不十分であった。二人の息子に恵まれてさらに状況は複雑化した(笑)。二人の関係は二人だけの問題であるが、子育ては息子たち本人や彼らを取り巻く社会を含めて考えねばならず非常に難解なタスクであった。この難しい課題に取り組むためには新たな分野に立ち入ることとなった。それが「異文化コミュニケーション」や「多文化共生」である。この分野に関して素人だった僕は、多忙な中でも少しの隙間時間を使って関連文献に目を通したり、人々の体験談に耳を傾けたりした。
調査を進めるに連れて、当時の日本において(今もそうかもしれないが)国際結婚が如何に「リスキー」な選択であったかを思い知らされることとなる。国際結婚の先輩たちが語る現実は、”夢物語”とはかけ離れ”苦労と修行”ばかりが目に付いた。案の定、私たちもその例外から外れず多種多様な苦労を強いられた。”外国人が日本で生きていく苦労”、”外国籍配偶者を持つ日本人の苦労”、そして”深層文化の異なるもの同士が醸し出す(目に見えない)独特の雰囲気を日本社会と調和させる苦労”。これが日本社会にいるからこその苦労なのか、世界中どこでも同じなのか分からないが、どこに「地雷」が埋まっているかわからないような道を歩き続けているようなものだった(具体例はブログでは完全非公開)。一歩間違えば”The end”.
二人の子育て中、周囲の皆様には大変なご心配をおかけした。というのも、当時の私は「墜落寸前の飛行機」の墜落を阻止すべく必死に操縦桿を握っている状態だった。墜落を阻止するためにはいかなる”奇策”にも打って出た。しかし、その奇策をいちいち周囲に説明する余裕などない(というよりも説明するのが面倒臭くなってしまっていた)。ジェットコースターのようにアップダウンの激しい展開に心配した多くの方々の助言には、耳は傾けたもののこちらの事情を説明することは一切なかった言ってよい。結果として今、子どもたちも成長し家族全員がそれぞれの道をしっかりと歩んでいる。当時ご心配をおかけした皆様も「ホっと」胸をなでおろしていることだろう。
学生時代の経験や家庭事情を通じて“ソトの世界”への興味が益々深めた私は、生徒・学生の海外研修等の引率や国際理解イベントなどにも積極的に関与した。高校教諭二年目の夏季休暇中は、全国から選抜された高校生を引率してバンクーバーに一ヵ月滞在した。その後もイギリス、オーストラリアなどでの海外研修を進んで引率し、学生たちの行動観察に明け暮れた。僕が引率してやることは一つだけ。とにかくずっと生徒学生にくっ付いて回り、彼らの「気持ち」に入り込むこと。生徒、学生からすればいい迷惑なのかもしれないが、他文化に接触したときの人の心の変容過程を追うことは、もはや僕の趣味と化していた。