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考えすぎない
ピアノを習い始めた。
つい先日もレッスンだった。その時、先生に言われたことがある。
「考えすぎないでください」
私が考えすぎてしまったのは、ミとドとラの和音だった。
和音なので3本の指で同時に鍵盤を押さえなければいけない。その音だけ抜き出せば、正しい鍵盤を押さえることが出来るけれど、曲の流れでこの和音にぶつかると、途端に押さえる場所がわからなくなり、指が迷ってしまう。
そんな様子を見かねた先生が、私に言った言葉が、「考えすぎないでください」だった。
続いて、先生はこうアドバイスしてくれた。
「そのちょっと前から、弾いてみてください。」
言われたとおりに弾いて、和音の前で手を止めた。
「それで鍵盤に残った指をそのまま、おろせばいいんです。」
鍵盤に残った指を見る。その指はミとドとラの鍵盤の上にあった。
目からうろこだった。
「流れで弾いていけば、ちょうど指が次の和音の上にあるので、考えすぎないでください。」
ああ、そうか。その言葉が私の中ですとん、と腑に落ちた。
私は、譜面どおりの正しい音を弾くことに必死だった。だから一音一音、楽譜どおりの正しい鍵盤を押さえようと、楽譜と指を連動させることばかりに気を取られていた。だから、今指がもう答えの上にあるなんて気づきもしなかった。
レッスンの帰り道、意外と「考えすぎない」ってそういうことかもしれないと思った。
よく「考えすぎないで」と、人は言う。
でも、改めて考えると、考えすぎないでってどういうことを言うのだろう。「考えすぎず、自分の意志に正直になって行動すべき」と簡単に言うけれど、それってなかなか難しいことだ。まず自分の意志とは何なのかをあれこれ考えしまう私にとっては、スタート地点にもなかなか立てない。結局、考えすぎないって具体的にどう振舞ったら考えすぎないなのか。
でも、それがなんとなくわかった気がした。
正解を見つけようとはせず、その日の流れに身をまかすこと。今日のレッスンと同じだ。
私の指は、私の意志とは無関係に勝手に答えを導き出していた。案外、そんなものなのかもしれない。確かに、人は意志があってこそ、行動できる。でも、そんな明確なものでなくても、例えば意味もなく散歩をしたり、なんとなく今日どうしても食べたいものを食べたり、そういう日々のなんとなくの積み重ねで、正解にたどり着いていることもあるのかもしれない。正解を導く方法をあれこれ考えてじたばたせず、今目の前にある押せるスイッチがあれば押してみたり、スイッチがなければただのんびりと散歩したり。そんな感覚だろうか。
今、私が弾いている曲は簡単な初心者向けのものばかりだ。だからこそ「考えすぎない」が通用するし、もちろん今後それだけで立ち行かなくなる場面が出てくるだろう。
だからこそ、この日の「考えすぎない」を忘れずにいたい。答えは意外ともうそこらへんに転がっている。もしかしたら、私の足元に、行動に、指先に。
そうやって思考をなるべく薄っぺらい単細胞にして、ミルフィーユみたいに積み重ねる。そういう過程を経て、私はいつか憧れの革命のエチュードみたいな難曲も弾きこなせるかもしれないのだ。
そんな夢を描きながら、その日珍しくちょっと寄り道をして帰った。
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