真夏の夜、野球とビールの夢
僕は野球が好きだ。
あの熱気、歓声。球場で飲むビール。
今日だって、楽しい野球観戦になるはずだった。隣が父さんでなければ。
野球好きの僕は一人でも観戦にいく。いつものように指定されたチケットの席に向かうと、隣には僕と同じようなスーツ姿の男性がいた。
それが、父さんだった。別に待ち合わせしたわけではない。単なる偶然だ。といってもここは3万人以上入るスタジアム。そんな偶然、最初は信じられなかった。
「ビールでも飲むか」
沈黙に耐えかねたのか、父さんが口を開いた。
「ああ、そうだね」
あまりの偶然に動揺して、定番のビールを頼むのも忘れていた。酒が入れば、この気まずい空気も少しはほぐれるかもしれない。
「乾杯」
お互いのカップが小さく傾いた。
親子水入らずでビール片手に野球を観る。なんて理想的な親子なのだろう。実際は会話さえままならないけど。球場で飲むビールが、いつもと変わらず美味いのが唯一の救いだ。
僕は、実を言うと、父さんが得意ではない。
父さんは、昔からええかっこしいの批判屋で、基本上から目線。何を話しても批判から入るから、最近では話すのもめんどくさくなって実家にもしばらく帰っていない。そんな父さんと僕の唯一の共通点、それが野球だ。しかも同じチームの熱心なファン。僕が小さいころ、父さんと一緒にこのスタジアムで、よく野球観戦したことを覚えている。野球観戦のいろはを教えてくれたのも父さんだ。野球を観るには、バックネット裏付近の上の方の席が良いと教えてくれた。上から見る方が、打球の行方や塁上の人の動きとか、試合の展開がわかりやすいからだと言っていた。
それにまんまと影響された結果、偶然席が隣同士だったというわけだ。
確かに僕の野球好きは父さんの影響だ。だからといって父さんと野球観戦は気が進まない。
野球に関しても父さんは批判ばかりで「あいつはどうせ打てないよ」が口癖。僕はちゃんと選手を信じて応援したい。父さんの解説を聞きながら野球観戦するのは正直苦痛だった。
だから、いつからだろう。父さんと野球観戦することもなくなってしまった。
「よく来るのか」
父さんが聞いてきた。口の中に残るビールを急いで飲み込んで答えた。
「うん、まあ。たまに」
「いつも一人でか」
寂しいもんだな、と父さんに言われそうな気がして、僕は口をつぐんだ。僕と父さんとの会話は、いつもこんな感じで、宙ぶらりんで終わる。
「……」
「……」
球場に溢れる様々な音が、今日はやけに輪郭がくっきりと耳に届く。二人でいるのに、一人のときより静かだ。
「あいつだ。あいつは、いつも俺がいるときに限って打たないんだよな」
また父さん批判病が始まった。久しぶりに会うけど、本当変わってないな。
打席には4番打者の筒本が入るところだ。チームのリーダーで頼りなる我らが4番。でも、最近は暑さのせいか調子を落としていた。
「おい、4番ならここで打てよー!」
さっきから後ろでヤジを飛ばしているおじさんも、より一層大きな声援を送る。どんなかたちであれ、みんな彼に期待しているのだ。
2アウト満塁。逆転のチャンス。初球はバットが空を切った。
「ほらな、やっぱり打たないだろ」
そう言って、満足気にビールを飲む父さんに、僕はどういうわけか急にイラついて、ついに言ってしまった。
「いい加減にしろよ。そんなことばっかり言って何が楽しいの。筒本が打たないのは、父さんが筒本を信じてないからだよ、自業自得じゃん」
言ってしまった。言った後から心臓がばくばくしてきた。とりあえずビールでも飲んで心落ち着かせよう、そう思ってカップに手を伸ばしたそのとき、後ろからヤジおじさんの声が聞こえた。
「お二人さん…あぶ…」
その時だった。突然、僕らの目の前に水しぶきが舞った。何が起きたか理解する前に、舞い上がった水しぶきが僕と父さんに波のように押し寄せて来て、一瞬でずぶ濡れになった。なんだ、これ、このにおい・・・水じゃない。ビールだ。
茫然とする父さんが握っているカップの中を見ると、白いボールが綺麗に収まっている。
「親父さん、すごいねえ。ホールインワン!」
周りから、まばらに拍手が起きる。やっと僕の耳にアナウンスの声が届いた。
「ファウルボールにご注意ください・・・」
そうか。父さんのカップにあるのは、筒本の打ったファウルボールだ。
父さんは我に返って、カバンの中のタオルを探しだした。その間にも、後ろのヤジおじさんは「ビールかけの予行練習かい、縁起がいいねえ」とはやし立てている。ええかっこしいの父さんは、不器用に愛想笑いを作りながら、なかなか出てこないタオルに慌てている。
僕はなんだかおかしくなってしまった。
「ほらな、僕が言った通りだ。選手を信じないから、筒本が父さんに仕返ししたんだよ」
「うるさい」
まだ父さんはもたもたとタオルを探している。相当動揺してるな・・・と思いながら、僕は自分のタオルを差し出した。父さんもやっとのことでカバンからタオル引っ張り出す。あれ、父さんのタオル・・・僕のと同じ、「筒本」のやつだ。
なんだよ、なんだかんだで応援してるんじゃん。そう思ったその時だった。
歓声が沸き上がる。周囲の人が一斉に立ち上がり、みな、同じ方向を見た。
白い打球が大きく上空に舞い上がり、ライトスタンドに吸い込まれていく。
満塁逆転ホームランだ。
「おおおおおおおおおおおおおおお」
僕も、父さんも、ヤジおじさんも、みんなで入り乱れてハイタッチをした。
久しぶりに父さんの手に触れた。久しぶりに父さんの顔を真正面から見た。意外と父さん、年取ったかもな。ホームランで興奮気味なのに、そんなことを僕は思っていた。
「初めてだ、俺が見ているときに、初めて打ったぞ!」
父さんは、誰よりもはしゃいでいる。そのはしゃぎようときたら、僕が恥ずかしくなるほどだった。
「祝杯でもあげるか」
珍しく、僕から提案した。
「そうだな、筒本が打ったんだ。記念に俺におごらせてくれ。」
こんな時でもおごろうとするなんて、父さんはやっぱりええかっこしいだ。
「乾杯」
さっきより少し大きな声で乾杯した。
二人でごくごくと喉を鳴らしながら、ビールを飲んだ。
「いやーうまい。こういう日に飲むビールは本当にうまい。」
父さんがあんまりにも嬉しそうに振る舞うから、僕は呆れてしまう。
「大げさだな、そんなに筒本のホームランが嬉しいか」
「それもだけど。息子と、ビール飲みながら野球観戦をするのが夢だったからな」
その時、父さんがどんな顔をしていたか、僕は見ていない。
僕は何も言わずに、残りのビールに口を付けた。この苦みがいつから美味しいと感じるようになったのか。大人になってわかること。それが今日また一つ増えた気がする。
僕は少し恥ずかしくなって、小さく欠伸をした。
#あの夏に乾杯 #小説 #野球 #エッセイ #ショートショート #短編