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実家の猫

どうもこんにちわ。社畜のワイです。

タイトルの「実家の猫」とは、実家の猫の思い出を語るわけではない。
「実家の猫」のポジションについて語るのである。

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■「実家の猫」ってだいたいこんな感覚じゃない?

昨年25年の猫生を全うした愛猫のへちま。
1996年に兄が拾ってきてから、母がまだ間も開いていないへちまに
夜通し2時間置きにミルクを与えて懸命に育てる様はまるで本当の
人間の赤子のようであった。


それ以来へちまは我が家のアイドルになるのだが、
その時はまだ子供だった私にとっては「母が育てている猫
という感覚。

自分の生活の基盤は学生生活そのものであり、
当然自分の人生の主役は自分。

言い方はすっごく雑になるがいわばへちまは自分の人生の中の脇役、
あくまでも「家で飼ってる猫」的ポジションに過ぎなかった。

もちろんかわいくてかわいくて特別な存在ではあったが、
懸命に育てたのは私の母であり、実際に感情をあまり表に出さない
へちまも母に一番なついていたので、自分の家族なのにどこか
他人事のような感覚があった。

しかし、その後に我が家で飼うことになった猫との相性が
悪かったことでその状況が一変する。

へちまが8歳の時に、私が一人暮らしをすることになり、
そのままへちまを置いていくにはかわいそうだったので、
私が引き取ることになった。

そうすると、今まで「家族の猫」にすぎなかったへちまの
存在がいきなり「自分の猫」という位置づけになった。

今まで全くと言っていいほど関与せず、母に任せっきりだった
獣医さんに行くもの、ごはんを用意するのも食べさせるのも
全部自分でやることになるのである。

そしてへちまが年老いていくと共に、だんだんと生活は
「自分中心」ではなく「へちま中心」の生活に変わっていく。
私は子供を持ったこともなければこれからも持つこともないが
なんとなくその感覚に近いのかな?と感じる。

■親世代の人間が犬や猫にそこまで気を配れるのかを考える。

うちにはへちまの後に猫、そして犬が来たが、(いずれもちっともなつかなくて本当にかわいくなかった)そこにへちまがいるとなると猫2匹、犬1匹となる。
犬は毎日の散歩などで必然的に手が掛かるが、猫の場合は病気になってもおとなしくしているだけなので、よっぽど注意深く見ていない限りはそれにはなかなか気づけない。
両親も当然自分たちが毎日生きていくために生活があり、
まして多頭飼いで動物たちを面倒見ていれば、単純計算で分配される
目の配り方も3等分になる。

もちろん多頭飼いでもそれぞれの犬や猫に100%の愛情を向けているわバカモン!
という反論もあるかもしれないが、考えてもみてほしい。
実家の犬猫の面倒を見ているのはバリバリの昭和世代である自分の両親だとしたら
いくら頭では犬猫が「家族」だとわかっていても、自ら言葉を発することのできない犬猫を
実際の人間のように注意深く様子を見て細やかなケアがすみずみまでできるのか?
と言われたら私はそうは思えない。

しかし、他に猫の面倒を見てくれる人がいない、私のようにまさに「猫1:自分1」
という状況となれば当然その愛情は3分割ではなく100%丸ごと向けられることになる。

■「知らないこと」の恐ろしさ

もし、私がへちまを引き取ることがなかったら、へちまは当然そのまま
「実家の猫」として過ごしていただろうし、
もっと掘り下げて考えるなら、へちまはまず間違いなく16歳くらいの平均寿命で死んでいただろう。
16歳くらいで甲状腺機能亢進症になって体に一気にガタがきて
「気づいたらご飯を食べない」という状況に陥り、最終的には水も飲まなくなり、食事を受け付けなくなってからあっという間に数日で死んでしまう。

そしてその後は火葬され、「なぜ死んだのか?」という追及も深くされずに
「まぁ寿命だったんでしょう」で終わって終了だ。

これが悪いというわけではなく「至って普通の死に方」だと私は思う。
特に昭和の親世代からしたら飼い猫が16歳まで生きるなんてのは
大往生と言ってもいいレベルだろう。

その点私は本当にたまたまでラッキーだったのだ。
たまたま、へちまを引き取ったこと。
たまたま、へちまを注意深く見られたこと。
たまたま、「甲状腺機能亢進症」という病気を知れたこと。

そしてその偶然が重なって自分の人生がへちま一色になり、
へちまの加齢と共に愛情の大きさも増していったのだから。

令和の現代は猫と暮らしている人との情報交換も
情報発信も情報のキャッチも誰でも簡単にたやすくできる。
だからこそ自分が知らないで困ったことを発信して注意喚起もできるし
逆に知らなかったことを知ることもできる。

■つまり、実家の猫に会いに行け。

ここまで長々と書いてきたが、最終的に何が言いたいかというと
実家で一緒に過ごした猫が健在なら、「実家の猫に会いに行け」ということだ。

今、独立して猫と暮らしている人は、目の前にいる自分の猫がかわいくて
かわいくて仕方ないだろう。

自分で世話をし、ごはんを食べさせ、具合の悪い時には獣医さんに連れて行き愛情を一極集中で注いでいるのだから当然だ。

だが、考えてもみてほしい。
年老いた両親は自分と同じように家にいる猫に気を配れるか?
そこまでの愛情を注げるか?
両親は猫の病気や体調管理についてどれだけ知識を
持っているのか?

自分が実家に猫を置いて独立したのであれば実家の猫を気にかけてあげてほしい。
体調に大きな変化はないか?
年老いた猫特有の病気はないか?

今の自分が、目の前で一緒に暮らす猫を愛しているのは、
紛れもなく実家で一緒に過ごした猫の存在があるからだろう。
数年か十数年かは人によって違いはあれど、実家の猫ってのは
自分にとって最初の「大事なあの子」って人が多いと思うのだ。


私はへちまの後に来た犬と猫が同居してたにもかかわらず自分にまったくなつかなかったので気にも留めなかったクズであるが、偉そうに言わせてただく。。。


ちなみに、両親が実家の猫にそこまで気を配れないなら
それこそ実家の猫には「 #Catlog 」を着けてあげることをお勧めする。
アプリから実家の猫が今何をして過ごしているのかのリアルタイム状況を
確認できるだけではなく、直近の行動をまとめて振り返れるので、
「最近睡眠時間が極端に減っている」や「水を飲む回数が少ない」
などの変化があれば両親に伝えるなどもできるのだ。



▲後楽園ゆうえんちでボクと握手🤝的なへちま。

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