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「あの日、限りなく静かな海で」 #あの夏に乾杯

嵐のような #未来のチームの作り方  トークイベントを終えた翌日、静かな夏を過ごしていた。恐らく10年後に今日を振返ったら、この蒼い海を想い出すだろう。都会の雑踏からは、ほど遠い静かな海。あの限りなく静かな海の蒼さは、いつまでもボク達のココロに残るだろう。人生には、二度と出会えない感動的な音楽や、映画があるように。これは僕の回想録であり備忘録でもある。またみんなと乾杯したい。

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夏は台風と紙一重

天気予報と女心ほど、予想が当てにならないモノは無いだろう。その週末は台風が九州に上陸して、跳ぶはずの飛行機は欠航になるかもしれなかった。「東京⇒福岡」便は、国内でも有数で、毎時の便数が多い。しかし1200Kmの距離を移動できる手段は限られている。大いに天気は荒れそうだった。しかし荒れるのは天気や海だけでは無い。登壇者達のスケジュールも又大いに荒れそうだった。忙しい人ほど困難を乗り越える”術”を持っているものだけど、物理的な距離をワープするほどの”術”は無い。もし登壇者が誰も来れなかったら、ボクに出来る事は、スカイプのテレビ会議で結ぶ事くらいだった。

一般的にイベントは、関係者が増えれば増えるほど「仕切り」は困難になっていく。あっちを立てれば、こっちが立たなくなる。それは立場や利害の違いから生じるけど、今回は大きなトラブルが無かった。それは「仕切る」手前に流れる「登壇者やスタッフ関係者の資質の高さ」に尽きると思う。感謝しかない。

素晴らしい夏になるか、台風で荒れる夏になるかは紙一重。歯車は一つでも狂うと巻き戻すのは難しいのは、過去の経験から沁みている。

トークイベントとは計算された「お芝居」では無い。JAZZセッションのように「予想外」や「想像できない」何かが会場全体に生まれるから記憶に残るのだと思う。夏FESが想い出深いのは、そこに参加した者にしかわからない「何か」があるのに似ているかもしれない。



きっかけはある日突然に

人生とは「運」と「縁」で出来ていると思う。あの日藤村さん鳥井さんに声を掛けなかったら、今回のトークイベントは実現していなかった。「恋はある日突然に・・・」と似て、出会いがしらにぶつかる事が「何か」に繋がる事があるけれど、もともとのはじまりは、noteオフ会繋がりの坂口さんのイチ推しで牟田口さん2月のトークイベントに登壇してもらった事だし、その縁で今回に繋がっている。

そしてもう一つ大事な「鍵」がある。平山さんに参加してもらった事だ。これは鳥井さんの一声がきっかけだったのだけど、後々これが大事が「鍵」だったとはこの時は思いもしなかった。これは後ほど書くとする。

平山さんは、何か惹かれるものがあって何度かランチをしたりしていたけど、このメンバーでトークイベントを福岡でやれる事になるとは想像もしてなかった。

それにしても、鳥井さん慧眼に驚きを生じえない。みんなに”ブッダ”と呼ばれる謂れが理解できた。ちなみに、慧眼(けいがん)とは・・・「物事の本質を鋭く見抜く力」と辞書に書かれているけど、仏教で真理を認識する能力を、眼になぞらえて5種類に整理された「五眼」のひとつである。二乗(にじょう)の人が持つ「一切の事物を空であると見通す智慧(ちえ)」の眼のことでブッダの解像度を上げておきたくなった。

なお鳥井さんブッダ説」はトークイベントでも出てきたのだけど、元は藤村さんから聞いた。そういえば似たような事を坂口さんも以前言っていた。人の評価とは恐ろしいもので、大体あたっている気がする。



大盛況とモヤモヤの解

トークイベントは、開催10日前に完売して、増枠をして3日前に完売した。福岡では珍しい出来事だと思う。大抵の場合は、当日券でなんとか入れるからだ。今回の参加者で質疑応答の方は「大分」から来てくれていた。

なお、お問い合わせメールで「売り切れてるけどなんとかは入れませんか?」というメールが5通頂いたのは驚いた。そのなかには鹿児島の方もいて、SNSのチカラって凄いなと思ったし、これからは興味・関心で繋がるのが普通になるんだなと感じた。テレビ・雑誌時代には考えられない事だと思う。

しかし当日キャンセルの方や、peatixをよく読まずに日にちを間違えて参加出来なかった方もいたので残念だった。飛行機のように厳密なオーバーブッキングは生じないから、今後はある程度の幅を見た席数にした方がいいのかもしれない。席数はバカ正直すぎた。これもまた勉強になった。

藤村さん、鳥井さん、平山さんとトークできたのは楽しかったし、参加した方々の反応を見ながら、本音をぶつけた事に熱く反応してもらえたので、ボクとしてはかなり深く響くトークセッションが出来たと思う。まぁ細かい点はご愛嬌とさせてもらいたいけど。

でも、実は一生懸命に話しながらも「なんとなくモヤモヤ」する事が心の底を流れていた。コレはトークイベントをやってる最中はわからなかったのです。「なんとなくモヤモヤ」は「かなり絶対的なモヤモヤ」なのだと後で解かったのは、後の祭りだったかもしれない。

ちなみに少し言い訳したい。トークイベントは、「開催基幹系」・「イベント運営系」・「イベント演出系」・「登壇者フォロー」・「司会進行・モデレーター」1人5役をこなす。そうすると、脳のキャパシティは限界値スレスレになる。だから「なんとなくモヤモヤ」は、脳が追いついて無いだけで、実に大事な「何か」なのだと思う。見た目は、酒を吞んでリラックスしてやってるのだけど、アタマはかなりギンギンに回ってます。カラダに堪えるものです。筋肉痛のように。


というわけで、往々にして、筋トレには正しい負荷が大事だけど、イベントにも正しい負荷が必要なのかもしれない。これは肉体的にも精神的にも、エクササイズこそが「次への一歩」だとブッダに諭されている気もする。トークイベントは終わった後の高揚感が付き物だけど、これに溺れてはならないという戒めかもしれない。

このモヤモヤ感の正体は、翌日に明らかになるのであった。



「まるで雑誌の表紙のような海ですね」

イベント打ち上げの遅い晩御飯を終えて、翌日にスローな福岡をおもてなしした。なんと言っても福岡は市内だけではもったいない。行きたい所も聞いていたので、小旅行的な休日を過ごしてもらおうと思った。

車中や、食事や、お茶したりしていくうちに「なんとなくモヤモヤ」の正体が、解かってきた気がした。

それは「世代間OSの違い」とでも言うのだろうか。同じ話をしていても、ほんの少しずつ、ちょっとずつ違う「何か」を微調整している「気遣い」というか「バランス感」とでも言うのだろうか。これは、若さゆえの配慮とも少し違う気がする。

僕の生きた昭和は、「多様性」など無く「情報は独占こそチカラなり」で「学歴・肩書優先」が跋扈していた。3高(高学歴・高収入・高身長)が持てはやされていて、個人の自由など会社組織では存在し無かった。みんな物質的な豊かさだけを信じて「クソ仕事」へ猛烈に走ってきた。

だから、この「世代間OSの違い」には「何かを学ぶ」姿勢が大事だと思っていて、かなり”前のめり”に学んできたつもりだった。でも、それは少し違ったのかもしれない。


日本がキラキラと元気で輝いていた頃を彼らは知らない。


根底に流れる「何か」はこの辺なのかもしれない。同じ景色を見ているけど、流れている音楽は違うだろうし、思い浮かべる情景もまた違うだろう。その「何かの違い」を本質的に理解していないんだなぁと思った。この「違い」自体は大した問題では無いけど、底流に流れる「何か」を受けとめて、腹に落とせるかは全然違う。

平山さんが「僕たち30代は、20代と40代の両方の気持ちがわかるんです。だから両方へ翻訳する事が大事だと思っています」と話してくれたのに救われた。深く感謝したい。

僕は海に浮かぶ夏雲を遠い目で見ながら、岩井俊二監督、主演三上博史、CHARAの、映画・スワロウテイルを思い出していた。

むかしむかし、“円”が世界で一番強かった頃、
その街を移民たちは“円都”と呼んだ。

"円"が世界で一番強かった時代。一攫千金を求めて日本にやってきた外国人達は、街を"円都(イェン・タウン)"と呼び、日本人達は住み着いた違法労働者達を"円盗(イェン・タウン)"と呼んで卑しんだ。映画・スワロウテイルは、そんな円都に住む、円盗たちの物語である。



僕は自転車ロードバイクで、福岡周辺や九州中を走っている。日頃は、時速30~40kmくらいで連なって走るので、実は自動車のスピードとは大して変わらない。だから、今回はいつものトレーニングコースをなぞってクルマで走った。高速道路でバビュっ!と行くのもいいけど、どこを走っているのか実感が湧かないし、道中の雰囲気も伝えたかったからだ。しかし、みんな激務でハードスケジュールを縫って来てくれているから、さらに肉体に負荷をかけてしまった感が満載だった。暑苦しい昭和世代の癖が抜けずにすまないと思っている。多忙な藤村さんにはしんどかったと思う。ごめん!

でもその中で「モヤモヤ感」が晴れたのは、とても良かったし、次につながる「何か」を確かなものになった気がする。悲観的なのは「感情」で、楽観は「意志」だから。あえて前向きに捉えていきたい。

昼下がりの海を見てプリンを食べていると、潮の香りと少し甘酸っぱい風が、僕たちの背中を追い越して行った。



終わり行く夏のつづき

いつも感じている事だけど、「出来る事を積み重ねる」をコツコツやって行く事は大事だけど、それだけでは足りない。とか、「子供の遊びみたいで、オトナの仕事では無い」という感覚が、恐竜の尻尾のように付きまとう。

僕はこれらを手短に「有名無名・問題」と呼んでいる。

「有名でないから話が進まない」
「フォロワー数が少ないからOKがとれない」
「無名だから信用が無い」

書き出せばキリがない。この根底に流れる「自分とは何者か」や「自分はどこから来てどこへ行くのか」は、現代では「SNSがセットで付きまとい」無視できない。だって、いくら顔が広くてもこの「便利さ」や「スピード感」には敵わない。そして例えて言うならば「かといってOSを書き換える事は出来ない」のだ。だから、旧いOSをUPDATEし続けるのかもしれない。そう確信に近いものを感じた。


「世代間OSの違い」は繋ぐことが出来る。


そう信じれるものがあった。夏はいつか終わりが来て秋になる。秋は一瞬で過ぎ去り冬が来る。雪を超えて春が来る。花は散るからキレイなのであって、季節も移ろいゆくから美しい。これは遠くソコに通じている気がする。何事も移ろい、同じままである事などは無いから。


またいつか振返ったら、あの蒼い海を想い出すだろう。都会の雑踏からは、ほど遠い静かな海。あの限りなく静かな海の蒼さは、いつまでもココロに残るだろう。人生には、二度と出会えない感動的な音楽や、映画があるように。 

また会おう。そして笑おう。未来はあなたたちにある。そっと静かに、少々控え目に勇気と元気を渡せるように,、もう暫く僕も走り続けようと思った。汗をかきながら。

#あの夏に乾杯  

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Jun Ikematsu / 池松潤
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