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友よ。「書くとは分かちあうこと」どう生きたか記憶に残ること。評価されるために書くとは違うから大丈夫。

最近知り合ったnorterに”あきらと”さんという、風変わりだが憎めない男がいます。まだ会った事はありません。こんな時代になってしまったので、当分会う事も無いかもしれない。しかし、それもわからない。気にする必要はないと思っています。

なぜならば、戦前に「結核」は「不治の病」で、罹患したら「永遠の別れ」を決意したものでした。しかし、戦争が終わって進駐軍(米軍のこと)がペニシリンを持ってきたら、「結核」はあっさり治ってしまった。結核になって「永遠の別れ」で涙をのんだ恋人が、戦後あっさり治って別のヒトと結婚した。そんな笑えない悲劇はよくあったハナシらしい。小説セカチュー(600万部売れた小説・世界の中心で愛を叫ぶ)に書いてあったので、死んだ祖母(明治生まれ)に尋ねたことがある。母方は結核の多い家系だったから。そしたら、戦前どころか、大正時代にも似たような変化はあったらしい。語ると長くなるので割愛するけど、だから今の「常識」など信じる必要はないと思っている。

端折ってちょっとブッこんだハナシをすると、あきらとさんは繊細なのに、ヒトのハナシを聞いて態度変容する男でもないので、「アドバイスしても、どうせやんねーだろ」と思うnorterもいるんだと思っています。しかし、おそらくnote界隈では、一番「あきらとnote」を読んでいる私としては、「あー。なるほどね」という行間を読みました。だから、ちょっと違う視点をもっています。

というわけで、私信で返そうと思ったのであるが、アンサーnoteを書くと約束したのと、、(おそらく)あきらとさんと、同じ感覚のnorterもいるんじゃないかと感じていたので、書いてます。

「なんのハナシだから、わからん」という方は、下記をどうぞ。


今風にサマると(なんでも要約するな)あきらとさんのモヤモヤしている事や、すっきりできない「ジレンマ」が書かれていました。

そこで、「なんでもかんでもハック野郎」が跋扈する時代なので(Disってます)ココは一問一答形式でいきたいと思います。漫画・ルパン三世の”五右衛門の斬鉄剣”ほど切れ味は鋭くないので、短文では書けません。少々おつきあいください。


「嘘をつきたくない」byあきらと

「"素直"というとキレイすぎますが、良くも悪くも嘘をつきたくない。」とのこと。まぁ多くの善良なるヒトはそう思っているよね。では家族や、愛するヒトのために「嘘をつかざるをえない」場合はどうするのでしょうか。

釈迦に説法だけど、嘘にもいろんな種類があるわけで、泣く泣くつく嘘もあれば、思わずついてしまう嘘もある。犠牲になる嘘もありますわな。

いつも嘘をつく人は、半ば病的な所があると感じるけど、そういう事じゃなくて、「犠牲になる嘘」ならば、つけばいいんじゃないの。嘘をつく練習すればいいんじゃね。なんなら「嘘の練習つきあってください」ってbosyuすればいいのかもしれない。そういうのは「オカシイ」と昭和のオッサンは言うだろうけど、それは違うと思うのです。イチローも言ってたけど、何事もエクササイズが大事で、バットは振らなきゃ当たらないし、やってみないと、わかんない。前進のための後退だってある。

「嘘」どんどんつけばいい。ついちゃイケナイ嘘はダメだけど、その回避方法も大事。なんならお相手します。嘘の筋トレ(筋肉にたとえるな)楽しくできそう。だから大丈夫です。


相対的に、ぼくにはやっぱり長い付き合いの方は少ない気がします。byあきらと

コレ沁みますね。私の友人に「お育ち(家系や学歴)から職歴まで」どんなお見合いに出しても恥ずかしくないヤツがおりまして、友達を大事にするヤツで、長くつきあってくれています。私には真似はできません。

これは次の「今生きてる感覚」の問いにも繋がるのですけど、「長くつきあう」と「どうつきあったか」の違いかもしれません。

私が影響を受けたというか、印象に深く刻まれた「歳の離れた友人」(と亡くなってから気が付いた事ばかりでした)は、長くお付合いする前にあの世に逝ってしまいました。

それから、時間ではなくて、深さの視点を持つようになりました。それは、一緒に過ごした「記憶」です。自分が死ぬまで忘れない記憶とでも言いましょうか。相手も口にはしなくても、一緒の景色を見ていた記憶です。

だから、深く沁みる時間を過ごせばいいのだと思います。おでんのように沁みる深さもあれば、雷に打たれて失神するような深さ(激痛)もあるのですから。だから大丈夫です。


「今生きてる」感覚を出来る限り持っていたいと思っています。byあきらと

生き方は多種多様ですが、美意識は文章に現れるように感じています。「生きる事に執着して生きる文章」と「死を覚悟して、あるべく姿を目指して生きる文章」は180度どころか、540度くらい違うと思うのです。

生きるとは何なんでしょうかね。

私は、「人生の演ずる役割を果たす」と感じています。人には持って生まれた資質や、育んだり、出会いがしらにぶつかるような人間関係があります。よく言われる「運と縁」ですね。そして「運と縁」はコントロールできません。

ぶっちゃけあきらとさんも、もう若手とは言い難いでしょう。「まだまだ捨てたもんじゃない」そう自分の子供や、若い世代に記憶を残すように行動すればいいと思います。なんか偉そうだね。あは。どのみち、自分の出来る事しかできないから。だから大丈夫です。

「今を生きる感覚」とは

あれよあれよと気が付けば「波間の泡」が消えていた。そんな泡のような人生でもいいじゃないですか。これは、刹那的とは違います。桜は散り際が一番美しい。それと似ているかもしれません。美意識は死生観をも反映させると思います。

あの世に行ったあと、「嗚呼。死んだのかー」と言われるのと「うん。あいつどう生きたの?」と聞かれるのは、違うと思うのです。

一緒に風景を見るように、記憶を分かちあえるのであれば、それは「書き手」の手を離れて、文章冥利に尽きるでしょう。

分かちあう一歩目は、信じる事から始まる気がします。不安や不信が渦巻く現代ではなおさらです。でも、人生は色々あるから、わかんねぇな。とりあえず酒でも吞もうか。

酒は誤魔化すために呑むものではありません。酒にしか救えない事もあると思うのです。(酒がスキなだけかもね)呑めない場合は、吞んだ気分をわかちあいましょう。

愛おしいあなたに乾杯!



「歳の離れた友人」って、こんな感じ。置いとくね。
現場からは以上でーす!



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Jun Ikematsu / 池松潤
チップありがとうございます! よい日をお過ごしください。