広告クリエィティブ職は聖書もわかりやすく語れるのか?その62。
普段広告のクリエィティブ業をしつつ、プロテスタントの教会でお子様にお話をさせていただいています。その原稿を公開するシリーズ。今日は最後の審判をたとえ話で説明したお話です。世の中なにが正しいかわからず参ってしまうわけですが、大丈夫だよ、というお話です。
<いいこと、わるいこと>
みなさん、嫌いな食べ物ってありますか?嫌いな食べ物のメジャーなものといえばピーマンとか、にんじんとか、セロリとか?でしょうか。わたしはナスが嫌いでした。が、大人になったいまは好きになっています。昔、嫌いだったものが、歳を重ねると好きになるということはよくあることです。それはお友達もそうかもしれません。最初はそんなに印象良くなかったけど時間がたつと、めちゃめちゃ気があって大切な友達になったりすることもよくありますよね。
人間ってすぐにこれは好き、これは嫌いって決めつけちゃうんですが、時間が経ったらいろんなことが変わってしまって、本当に何がよくて、何が悪い、ってわかんないもんなんですよね。
ニュースで、世界はどんどん悪くなってるということが語られることが多いですが、ファクトフルネスという本があってちょっと前に流行ったんですがそこでは世界で貧困に苦しむ人の割合は年々減っているというデータがありました。それを読んでも本当に世の中は悪い事ばかりなのか、それとも良い事もあるのか、ニュースをみていてもわからないなあという感じですね。
そして神様はどうしてこの世の中をもっとシンプルに良い世界にしてくれないんだろうか、と思ってしまうわけですね。
今日の聖書の箇所は、この世の中、人間の中にある悪いことをどうとらえるかのお話です。
<やっかいな毒麦>
2000年前のイスラエルでは麦を育てることが盛んでした。当時、農家の人を困らせる「毒麦」という種類の草があったそうです。これがとってもやっかいで最初のころは本物の麦と全然見分けがつかずで、毒麦だと分かっても抜こうとするとからみあってしまって普通の麦も抜いてしまうそうです。なのでちゃんと育ってから最後に普通の麦と毒麦を分けたそうです。
そしてなんと当時ひどい嫌がらせがあったそうでして、人の麦の畑にいってこの毒麦、ニセ麦の種をまくという嫌がらせをする人がいたそうです。じっさいにケンカになったときに「お前の麦畑に、毒麦の種、まいたるぞ!」という捨て台詞があったそうです。すごいですね。
イエス様はこれを天国とは何かというお話としてお話されました。25節「人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いていった」と。それを見て僕たちがいいました27節「だんなさま、畑には良い種をおまきになったではありませんか。どこから毒麦がはいったのでしょうか?」という質問をしました。これはまさに最初にお話をした、どうしてこの世はこんなに悪い事ばかりおこるんでしょうか?という質問に近いですね。
<良いものしかないところに悪いものが紛れ込む>
それに対して28節「敵のしわざだ」と。いやがらせで悪い種をいれる人がいるんですねえ。良い種しかなかったところにまかれてしまった、ということを言っています。ぜんぶがとても良い状態だったのに、悪いものがはいってきてしまう、というお話、どっかで聞いた事ないでしょうか?天地創造のお話、アダムとイブのお話。エデンの園が良いものだけだったところに、蛇に誘惑されて、罪がはいってきて、アダムとイブがエデンの園から出ていかなければならなくなったあれです。その綺麗な水がちょっとした汚れで濁ってしまう感じ、良い麦しかなかったところに、悪いむぎがはいってきて、ということで表現しているんですね。そして人間の中に罪が入ってくる様子をたとえてるんです。
僕(しもべ)は28節「では、行って抜き集めておきましょうか?」と聞くわけですね。この世の中にある悪いと思われることをなんとかする、綺麗しましょうか?と思う気持ちを表現していますね。 そうすると29節「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方育つままにしておきなさい。」とおっしゃいました。
いいものも抜いてしまうかもしれないからそのままにしておきなさい、とおっしゃいます。
<良いものと悪いものを分けるのは難しい>
この世の中において、いい麦と悪い麦の区別はとっても難しいんだとおっしゃっています。そう聞くと、おいおい、野放しにしておくんですか?と思うわけですね。それをなんとかするのは、刈り入れの時だと、まず毒麦をあつめて焼くために束にして、麦の方は集めて倉に入れなさいと。麦も毒麦も両方そだってから選り分けるんだと、いいのとわるいのを。そうしてから束にして悪い毒麦は焼いてしまって、良い麦は倉にいれましょうとおっしゃっています。
このお話、まとめると、「良い種しかまいていなかった畑になぜか毒麦が生えるのはそれは誰かが毒麦をまいたからやとそして、それいま抜きましょうかと聞いたら、いやいまぬいたらいいのも一緒にぬいちゃうからあかん、わかりにくいから。と。そして最後に収穫の時に悪いのは焼くしいいのはちゃんと倉に入れる」というお話でした。このお話、なんの譬え話だったか、思い出すとこれは天国のたとえばなし、なんですね。
この世の中っていい人もいれば悪い人もいるよね、と。さらにこれは人間の中には罪があるということ。アダムとイブの時代から始まって、それはどうしても紛れ込んでしまうもの。
そしてその悪い状態をはやくなんとかしてくださいよ、と思いがちです。でもそれって毒麦といい麦の区別は難しいということで、わたしたちには悪いことを裁こうとしても、いいこと、わるいこと、を分ける能力はそんなにない、ということをおっしゃっているんですね。
最初にお話したとおり、好きな食べ物も変わりますし、好きな人も変わる、時間がたったら、人の考えは変わってしまうものですし、いま世の中でおこっているニュースもちょっとしたことでいい人が悪い人といわれたり、悪い人がいい人といわれたり、となってしまうわけです。手のひら返しといわれるやつですね。人間にはいいこと、わるいことを決める能力はそんなにないということ。なので決めつけすぎるのはよくないということ。
そして、この譬え話の最後、最後に良い麦と悪い麦はちゃんと分けられるから安心してくださいね。とおっしゃっています。これは最後の審判と呼ばれることを表しています。イエス様が十字架にかかって復活されて天に昇られてそしてもういちどいらっしゃるタイミングが再臨といわれているんですが、そのタイミングになったらそのいい麦と悪い麦を分けて片方は焼かれて、片方は天国にいけますよと。
最後は大丈夫だから、とおっしゃっているんですね。
もうひとつ、人間の人生の中でも罪にまみれる時期、そうじゃない時期があるかもしれません。その審判のタイミングでその人の人生がどうなっているかが大事だとも言っています。他の譬え話では常にその日に備えて悔い改めないとダメですよともおっしゃっています。
<その時は必ずくるから、信じる、備える>
これを信じられるかどうか・・・、難しいかもしれません。苦しんでいる人は、いま、なんとかしてくださいと思うわけです。でも、大丈夫だよと、最後には安心して生きていってね、と教えてくれているんです。そのかならず最後にはということを信じて生きていく。難しいですが、それを希望として生きていきたいと思います。そして、自分はその審判の時にどんな生き方をしているか、すぐ人間は罪に堕ちてしまうわけで。それに備えて常に、イエス様の言葉につながっている必要があります。そしてその審判を信じるためにこの聖書にはたくさんの素敵な言葉があります。この言葉たちと毎週触れてその本当の意味に触れて信じて生きていきたいと思います。