広告クリエイティブは聖書も分かりやすく語れるのか?その81
普段広告クリエイティブの仕事にどっぷり浸かりながら、日曜日に子供さんに聖書のお話をするお役目をいただいております。今日も主の祈りについて。主の祈りのしめくくりの言葉について。お祈りする相手がどういう存在なのかを改めて定義して終わります。
天にまします我らの父よ、
願わくはみ名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を 我らが赦すごとく、
我らの罪をも赦したまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国と力と栄とは
限りなく汝のものなればなり。アーメン。
ここしばらく主の祈りについて、ずっとお話を聞いてきました。今日は、その最後のしめくくりです。最初に呼びかけがあって、そのあと、神様のことをお祈りして、そのあと、自分が欲しいものをお祈りして、最後、この「国とちからと栄とは限りなくなんじのものなればなり アーメン」の部分が今日の箇所です。
アーメンってどういう意味か知ってますか?きいたことがあるかもしれませんね。そのとおりになりますように、という意味です。ではそのまえの、国と力と栄とは限りなく汝のものなればなりはどういうことなんでしょうか?というのが今日のお話です。
たたえるってことばわかります?ふだん使わないですよね。称賛、って言葉は使うかな。ほめたたえる というように褒めるという言葉とセットで使うことがある言葉です。
みなさんがほめられる時っていつですか?すごいねーと。表彰式とかでしょうか。なんとか大会で優勝したーとかだと表彰式があって、すごいねーと褒められるわけですよね。あなたはこうだからほめられてますよ、ということが表彰状に書いてあるわけですね。この日曜学校では毎週来たみなさんを4月に表彰していますよね。何回しか休んでなくてえらいねーと。その褒めるには褒められる何かがあるから褒められるわけなんですね。
神様には褒められるいったい何があるのか。
今日読んだ聖書の箇所は、ダビデさんというイスラエルの王様が神様に言っている言葉です。讃えて言ったと、ありますよね、なにを讃えたのか、偉大さ、力、光輝、威光、栄光、とあります。これすごいですよね。褒める言葉、すべて入ってる、ちょっと重なってるところがあるぐらいの言葉です。偉大さ、えらい、力はわかりますよね。だから光り輝いている、そして権威、怖いぐらいの力、栄光、まさに栄えている、それがすべて神様のものですよと言っているわけです。そしてそれはどういうことかというと、天と地にあるすべてのものはあなたのもの。主よ、国もあなたのもの。あなたはすべてのものの上に頭として高くたっておられる。ぜんぶあなたのものだ、と言っています。これが最上級の褒め称えかたですよね。
表彰式を思い出してみてください。みなさんも表彰されたことあるかもしれませんが、表彰は、あなたは、このことについては素晴らしかった、このことについては市内で一番でした、となるわけです。大食いでも50メートル走でも、ですよね。いまやってるアメリカ大統領選挙でも、彼女は、彼は、とても誠実で、大統領に相応しい人です、そういう能力あります、とほめたたえるわけなんですが、まさか、そこで国も、ぜんぶあなたのものです、なんて言わないですよね。それぐらいこのダビデさんの褒め称え方はスケールがでかい、半端ないんです。
これはダビデさんがイスラエルの国のすべてを持っていて、そして、いよいよ神殿という大切な建物をたてるにあたって、次のソロモンさんという王様にそのプロジェクトをお願いする、そのタイミングで神様によびかけているんですね。その当時のダビデさんからしたら、国とか、栄光とかって、全部ダビデさん自身のもの、とも言えるぐらい自信満々になってもおかしくないのに、ダビデさんは、神様に対して、ぜんぶあなたのものですよ、と言っているんですね。これを国の王様が言っているとこが面白いですよね。王様としての力がぜんぶ神様の力なんだーって言ってしまっているということなんですね。
そうやってソロモンさんへこのダビデさんの政治的な力が引き継がれて、ソロモンさんが素晴らしい政治をした、ということにつながっていくわけです。その引き継がれていくためには、ちゃんと神様が見守っている、ぜんぶ持っている神様にお願いしている、ということなんです。
この世のすべては神様が持っているという言葉で主の祈りが終わるということがどういう意味を持つのでしょうか?
もう一度読んでみますね。国とちからと栄とは限りなく汝のものなればなり アーメン。とあります。
主の祈り、神様へのお祈り、自分のお祈りがあり、この言葉があり、アーメンでおわる。その通りになりますように、と。その通りになるには、神様がどういう存在か、を言っているんですね。神様がこんな方がだから、その通りになるよね、と。神様がこの世の中、すべてを持っている、すべてが神様のものだから、この通りになるよね、と、だからアーメンと言えるということなんですね。
お祈りしている相手が頼りなかったら、お祈りしても意味ないやんっておもっちゃいますもんね。お祈りしている相手が、神様で、その神様がこの世界のすべてをもっている方である、ということを確信して、アーメンでおわる。これが主の祈りなんです。
国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり という言葉の終わり方、でありますように、とかではなく、言い切り、そうである、なり、で終わっているということは、そういうこと。事実。と言い切っているというところにもこのお祈りの凄さが、力強さがあります。
でも、当時のダビデさんがお祈りしている姿を想像するに、ダビデさんぐらい恵まれている状況であれば、この地上のすべてのものは神様のものです、って言えますよねと。いまのこの世の中、みてください、全部神様のものです、って言えますか?と思ってしまうこともあるでしょう。
さらにこの主のお祈りがされていたころ、ローマの国がこの世の中を治めていて、国は皇帝のものやろ、って言われてた時代でした。そしていま、国は偉い人のもので、その偉い人同士で戦争したりしてるわけです。
そんな中でも確信している、汝のもの、あなたのものなのです。と言い切れるかどうか、そのためには、このお祈りの最初の方にみ国をきたらせたまえ、みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ、ということをお祈りして、この世界を神様のお考えが覆いますようにとお祈りしつつ、でも、でも、この世界は神様のものです、と言い切る。それがこの主のいのりの強さ、意志を感じるんですね。
主の祈りを勉強してきたんですが、この主の祈りの中にも物語があるなと思います。展開があるなと思います。テンションが変わっていく感じがあるなと思います。最初は、ちょっと弱々しく、声が小さく入る感じがあります。ねがわくは、本当に小さい、か細く、神様、ってお願いする感じがあるんですが、最後には、神様はすべてお持ち、この国と力と栄とは限りなくなんじのものなればなり、でテンションがグッとあがって、いける!生きていける!っていう気持ちになる、この短い文章でそういう気持ちにさせてくれる素晴らしいお祈りだなあと心から思います。これから人生さまざまなことがあった上でまたこの主の祈りに出会うとまた違った味わい、違ったお祈りにみえると思います。いつまでもこの主の祈りの近くにいてほしいと思います。おしまい。