私のバイオリン製作者への道
前回バイオリン製作家になる方法というか入門方法をお話ししたので、せっかくだから私のこの世界に入った時の事や留学体験記などをお話ししていこうかなと思います。
私がバイオリン製作者を目指したわけ
まず、なぜこの道を目指すことになったのかをお話ししないといけませんね。
私は中学校の時に吹奏楽部に入部していました。担当楽器はパーカッション(打楽器)です。
その頃はもう打楽器の演奏が楽しくて楽しくて仕方ありませんでした。
高校に入ってからも吹奏楽部に入部したのですが、兄がギターをしていたのに影響を大きく受けて、途中からバンド活動(担当は当然ドラム)に専念するようになり、吹奏楽部は途中でやめてしまいました。
しかし、高校を卒業してから社会人になるまでは音楽活動をまったくしませんでした。
そんな社会人になって落ち着いたころ、もう一度音楽活動をやりたくなったのです。
そこで選んだ楽器がバイオリンでした。
なんでバイオリンを選んだかというと、まず今までリズムだけしかできない打楽器をしてきたので、メロディーが演奏できる楽器がしたかったこと。
そしてピアノよりも手軽に楽器を手に入れられ、クラシックではピアノに並ぶ人気のある楽器でありながら、なかなか身近に接することの無いあこがれの楽器でもあったのです。
はじめは趣味で演奏を始めていたわけですが、そんなある日、図書館で「ヴァイオリンを作る」という本に出合います。
(新技法シリーズ)ヴァイオリンをつくる:川上 昭一郎 著
今この本を見かえすと、趣味で作る分には良い本なのですが、販売するための製品を作るには足らない部分が多い本です。(当たり前ですが)
それでもインターネットも当時はほとんど普及しておらず、バイオリン製作の情報を知るには 本・ビデオ・TV といったメディアが中心でしたから、当時の私がバイオリンの製作方法を知るにはうってつけの本でした。
それ以前にも、演奏のことも含めてまったくもってバイオリンのことを知らなかったにもかかわらず、小学生の時に合板を使ってバイオリンらしきものを工作で作ったこともありました。
今となっては、なぜそんなものを作ろうと思ったのかさえ思い出せません。
このように、もともと子供の頃から物を作ることが大好きだったこともあって、この本に出会ってからは演奏よりも製作の方に大いに興味が傾いたのです。
結果、当時就いていた仕事に将来の不安があったこともあり、一念発起してバイオリン製作の世界に飛び込もうと思ったわけです。
28歳の時でした。
日本の学校へ入学、そして就職
さて、そう思ったのは良かったものの、どうすればいいかよくわからず、はじめは鈴木バイオリン製造(株)に入社すれば製作が出来るかもと安易に思っていました。しかし、前回の説明のようになかなか難しく、求人を見つけることすら出来ずどうしようかと思っていました。
そんなところに「国立音楽院」にヴァイオリン製作科なるものがあることを知ることとなります。
まあ、普通はこれで「バイオリン製作の方法がこの学校でわかる」と思うものですが、私は「これで業界とのコネをつくることが出来る」と思ってしまったのでした。
別の専門学校に入学して就職した経験から、学校で学ぶことは実務ではほぼ使い物にならないことは実感していましたし、もの作りにはある程度の自信がありましたから、学校で学ぶ内容がさほど重要とは思っていなかったんですよね。
(今思えば基礎的なことはとても重要だったと思います。特に加工精度に対する意識は今でもあの時の経験が役に立っています)
いや、だからといって全然真面目じゃあなかったかというとそうではなく、真剣に取り組みましたよ。もともと”もの作り”は大好きですからね。
そんなもの作りに対する姿勢を評価してもらったことや(いや、勝手にそう思っています)、年齢が他の学生よりも高かったこと、そして「卒業後はとにかく生活するために就職したい」と常々言っていましたから、同学年の中でも一番最初に講師から推薦してもらい、下倉バイオリン社に入社できることになりました。
でも、この時にはバイオリン製作者になるというよりは、バイオリンの技術で仕事が出来れば良いと思っていました。
修理という仕事もとても面白く、短期間で結果が出るので達成感もありましたので、十分この仕事に満足していて、当初は辞めるつもりは全くありませんでした。
しかし、入社して4年後にはイタリアのクレモナに行くことを決意するのでした。
イタリア留学へ
この楽器店での待遇はとても良かったです。特に技術者は優遇されていました。
仕事内容もとても面白く不満もなかったのですが、しかしその中でぼんやりと「いずれは留学」と考えており、少しづつ情報収集をしていました。
修理工房の同僚であった妻と結婚し、1年ほどはその職場でそのまま二人共修理の仕事で働いていましたが、人間関係のいざこざなどもあって、2006年の11月に私達夫婦はイタリアに留学することを決意しました。
しかし、クレモナに留学するには9月にイタリア文化会館で手続きを行っておかないといけないとなっているではありませんか。
「こりゃぁ来年はダメかな?」と思いましたが、とりあえず出来るだけの事はしようと思い、すでにクレモナに留学していた国立音楽院時代の同期に相談しました。
すると
「そんなん通さなくても全然大丈夫ですよ!むしろ面倒くさいだけですから。」
(※当時は大丈夫でしたが、今はダメかもしれません。)
と励まされ(?)、彼に願書等を送ってもらい、全然わからないイタリア語を一生懸命調べながら、願書とプロフィール的なものとパスポートのコピーを封筒に入れて学校に送ったのが12月末のことです。
1月の中頃に返事が来て、3月末までに高校の卒業・成績の等価証明とユーロパスという履歴書みたいなものを提出しなければならない事が記載されておりました。
この返信が来るまでのタイミング、日本だと違和感ありませんが実はイタリアに日本から手紙を送って1ヶ月もしないうちに返事が来るなんてことはそうそう無いです。留学中何度か日本からクレモナに手紙を送ってもらいましたが、1ヶ月以上かかっていた事もありましたから、すごい運が良かったと思います。(逆にクレモナから日本へだと結構早かったりします)
内容がなんとなくは分かったのですがいかんせん外国語ですから
「こりゃ専門家に聞いたほうが良いな」
と思い翻訳家の所へ事情を説明に行くと、どうやら母校の高校に作ってもらった正式な証明書を翻訳家に翻訳してもらい、それをイタリア領事館(又はイタリア大使館)に提出して証明してもらうのが等価証明というものらしい。
早速母校に連絡して証明書を出してもらうと、なぜか在学証明だったり、成績証明は毎年の平均点が記載されていないといけなかったりとかで、翻訳家のところに行って確認・相談したり、母校への説明・再発行をお願いしたりと大変でした。
翻訳してもらうのはスムーズに出来、「残り2ヶ月あるからまあ大丈夫でしょ」と思っていたら在イタリア領事館で落とし穴がありました。
いや、今思うと相手はイタリアの国家機関ですから一筋縄では行かないのが当たり前なのですが、当時はまだそんなことを知らないウブな日本人ですから日本的感覚でいたのですよ。
書類をイタリア領事館に発送してから一ヶ月以上経っても音沙汰が無かったので電話で確認をしてみたら、
「~さんですね、書類は届いているのですが・・・(中略)申し訳ありませんがもうしばらくお待ちください」
とのこと。(余談ですが言い訳が長いのも「イタリアあるある」です)
結局その後一週間ぐらいで届きました。
「もしかして忘れられていたのでは?」と疑いたくなります。
その間、入学試験のためにクレモナに行く航空チケットや滞在先の手配、当時住んでいた家の片付けや精算、渡航準備や引っ越し荷物(バイク含む)を実家に送る準備などもしていました。
しかし、実は下倉バイオリン社を辞めるのは3月末になっていたので、これらを仕事しながらやってたんですよね。
我ながら二人共よく頑張ったと思う。
下倉バイオリン社側としては、正直技術者が同時に2人も抜けることになって結構痛かったと思うのですが、社長は笑顔で「がんばれよ」と4万円ほどする電子辞書(イタリア語が入ったものは当時は結構高かった)を餞別として手渡してくれました。
器の大きさを見せつけられ、さすが伊達に社長をして無いなと感動したものです。
そんなこんなで、試験は6月にあるのですが、語学留学もしないのでなるべく早めに行ってイタリア語に慣れておこうと思い、4月の初めに出国したのでした。
今思えば留学開始前後が一番頑張っていた気がします。
留学試験
イタリアの学校は入学試験を6月に行います。
日本は4月が入学時期ですが、西洋諸国は9月が入学時期ですので、バカンス前の6月に試験を行うのです。
私たちはそれに先立って4月にイタリアに渡ったのですが、まず問題になったのが住むところでした。
もちろんホテルに泊まればいいのですが、2カ月間ホテル住まいでは今後の留学費用が底を尽いてしまいます。
そこで、先に留学している友人にお願いして、まずは1週間ほど激安宿を予約してもらい、その後はその友人と同じアパルタメント(appartamento:賃貸住宅)に住むことにしました。
この宿は教会が運営している一つ星のホテルで、難民や生活苦の人々も受け入れているところです。そのため、サービスは必要最小限で、部屋の清掃やルームサービス、電話やテレビもありませんでした。
(※日本の一般的なホテルは星3つ以上です。ラブホテルでも星2つなんじゃないかしら。)
日本では考えられないでしょうが、部屋のドアの鍵もかかりませんでした。フロントに確認すると
「それが何か?外に出る正面玄関は夜鍵をかけるから大丈夫だよ。外出する時は貴重品は持ち出せばいいでしょ?」
と言われ、他人が自由に入れると思うと気軽に外出も出来ず、買い物と食事以外は外出を控えるようにしました。
今思えばお湯が出ただけでもありがたかったですよ。
実際お湯が出ないヨーロッパのホテルの話は枚挙に暇がありませんからね。
そんな感じで1週間を過ごしたのですが、アパルタメントに入居してからもなかなか大変でした。
クレモナでの電気、ガス、水道、ゴミ等の公益事業は、当時 AEM というところが一手に引き受けていて、部屋を普通に賃貸する場合には必ずお世話になるところです。(ホームステイや寮に入れば必要ないですが)
私がアパルタメントに入った時は友人を通じて開栓をたのんでおいてもらったのですが、開栓に来られる日は入居した日の3日後で、それまで暖かいものは食べられず、トイレ、シャワーも友人の家で借りねばなりませんでした。(日本だと即日開栓も可能ですよね)
3日後にやっと開栓してもらえると思ったら、ガスの配管部分の壁に穴があいていて「ここを埋めないとガス漏れしたときに危険なので開けることは出来ないね」と言われてしまいました。(水と電気は大丈夫でした)
これは早く埋めてもらわないと!と、管理人さんにうまくしゃべれもしないイタリア語で何とか伝えると、「今日は直せないから明日ね」と言われ(ちなみに管理人さんは通いで別の場所に住んでいる)、二日たっても来ず、なんとか見つけて「いつ来るの!」と聞いたら「あ、明日・・・」、「何時に!」「・・・9時には」と少しキレ気味で話をしてやっと次の日に直してもらい、それから3日後にやっとガスを開けてもらいました。
結局入居してから一週間以上不自由な日々を過ごしたわけです。
イタリア人の良く言えば呑気さを入居早々に肌で感じたものでした。
ちなみに、AEMからの料金の請求は3ヶ月~半年ぐらいの間隔でやってきて、メーターの検針も半年~一年の間隔で検針にやってきます。検針してない分は予想で請求してくるので、場合によっては多く払ったりするのですが、次の請求で帳尻を合わせています。
ヨーロッパの他の国も似たようなものらしいので、日本のように毎月検針に来る方が珍しいのでしょうね。
留学中は「Giapponesi sono i precisi.(日本人は几帳面だ)」とよく言われましたが、こっちとしては「お前らの方がズボラなんだよ!」と言いたいところです。
さて、取り敢えず住むことが出来るようになり、その後の1カ月半くらいはいたって平和にイタリア語を独学しながらのんびりと過ごして入学試験を迎えました。
クレモナのバイオリン製作学校は一般的にはScuola di Liuteria(バイオリン製作技術の学校)と呼ばれていますが、当時の正式名称はI.P.I.A.L.L.(Istituto professionale internazionale per l’artigianato liutario e del legno "Antonio Stradivari" Cremona)という長い名前でした。
現在はI.I.S. (Istituto di Istruzione Superiore "Antonio Stradivari" Cremona)という名前です。
就学年数は5年あり、日本の高等専門学校と同じような位置づけで、1年生から入学するのであれば6月に実施されるイタリア語の面接を受けるだけで入学が可能でした。(※現在は年齢制限があるようです)
しかし、国内外を問わず、高校卒業以上の学歴があれば編入試験を受けて2年生、3年生に編入することも出来ます。
これは、飛び級試験もかねているので1年生をやった人が3年生に飛び級するときも同じ試験を一緒に受けます。
なお、1年→3年以外は飛び級出来ない、つまり4・5年生には飛び級できません。これは、3年生終了が一つの区切りになっていて、3年生終了だけでもディプロマ(卒業証明)がもらえるようになっているからです。(日本での高校卒業と同等)
当時私が受けた試験は、以下のものでした。
Italiano(イタリア語面接) イタリア語で自己紹介とか入学志望動機とかを話し合います。
Cultura Musicale(音楽文化知識) 各調のスケールや転調、簡単な作曲などの楽典知識。
Disegno(デザイン) 定規とコンパスでの簡単な作図とフリーハンドでf孔を描く。
Tecnologia(木工知識) 木の種類や各部の名称、特徴、力学等の木工に関する専門知識。
Violino(Vn.演奏) スケールと曲の演奏。(曲は事前に自分で指定できました)
Laboratorio(木工技術) 白木での指版作りと平のみの研ぎ。
試験内容は毎年同じ事をするとは限りませんが大体同じようなことをすると思います。
昔はこの編入試験は採点基準が甘く、大学卒だったりするとそれほど成績が良くなくても(イタリア語がほとんど話せなかったとしても)3年生に編入できたようですが、年々厳しくなり、少なくともイタリア語がしゃべれて、木工技術が出来無いと3年生には入れなくなっているようです。
(事実、イタリア語がペラペラなフランス人やイタリア人まで1、2年生に落とされていました)
結局、このすべての教科は入学してからまたやりますので、何よりも授業内容を理解するイタリア語力と習得に時間のかかる木工技術が重視されるようです。
ただ、いくら重要ではないからといってイタリア語と木工技術以外の教科を白紙で提出なんてやると1年生行き間違いなしですが・・・。
試験の雰囲気は日本とは違いとてものんびりとしていて、厳しく試験官が生徒の廻りを巡回することなどまったく無く、場合によっては試験室からいなくなることすらあります。
そんなんでいいのか?と思ったりしますが、ふだんの学校の試験もこんな感じなので、いいんでしょうねぇ。
試験期間も6月だけかと思ったら6月に来られなかった人を対象に8月にも試験があるみたいで、それを受けて学校に来るのが10月くらいになった人もいました。
クレモナの製作学校はとにかくのんびりというか受け皿が広いというか、試験とかも決まった日に受けられないと入学自体がダメとか、進級自体がダメって事があまりなく、その後で何とかなったりしました。
そんなこんなで試験も終わり、私達はイタリア語がまるっきりダメでしたが、木工技術を評価してもらえたのか、2年生の編入に合格できました。
しかし、最後の最後にまたもや落とし穴があったのです。
ビザは国籍のある国(つまり私達の場合は日本)にある在イタリア大使館や在イタリア領事館で発行されるので、一旦日本へ帰らないといけないです。
そして、試験に合格した人はビザを発行してもらうために必要な入学許可証がもらえるのですが、そのためには郵便局で1年分の税金を納めた証書が無いともらえないのでした。
試験発表の日が土曜日で、郵便局は午後に閉まります。
しかもそんなことを知らない私達は次の日にフライトする飛行機で一時帰国する予定だったのでした。
試験発表は11時過ぎの予定が遅れて12時
「もう無理やん・・・」
と思っていたら、他の日本人の入学を手伝いに来ていた先輩留学生が声をかけてくれ、言葉の不自由な私達の代わりに窓口に掛け合ってくれて、直接現金でなんとか入学許可証を出してもらえたのでした。
いや~もうね、余裕は必要よ、イタリア留学には。
そんなこんなでとにかく日本とは違う文化をひしひしと感じた2ヶ月が終わり、イタリアを後にして一路日本へと帰国したわけですが、後から思えばこんなのは長かったイタリア生活では序の口でしたよ。
ビザと滞在許可証
何とか入学許可証を手に入れ一時帰国した私たちは、在イタリア領事館へビザの発行を申請に行きました。
日本国内のイタリアの出先機関は2つ在り、在イタリア大使館と在イタリア領事館です。
日本の東側を管轄している在イタリア大使館は東京にあり、日本の西側を管轄している在イタリア領事館は大阪にあります。
管轄は出生地で判断され、私たちは共に大阪の在イタリア領事館での手続きでした。
そして、この機関は日本国内と言えどもイタリア領ですから、対応もイタリア流です。
一番驚いたのは窓口の人の心象がルールであるということです。
列の一番最初に並んでいた人が窓口に立って、その担当者の前でカバンから各書類を出そうとしたときに
「そういった準備はここに来る前にしておいて下さい。次の方~」
と後回しにされた時には並んでいた人全員がものすごい勢いでカバンから書類を出しましたね。
実際イタリア国内でも窓口担当者の裁量権は大きいです。
(というより裁量権の大きい人が窓口を担当している?)
私も警察で滞在許可証を出してもらうために専用窓口に何度も並びましたが、同じ書類を揃えても大体男性職員の方が大目に見てくれて、女性職員の方が融通が利かずに再出頭させられたりしました。
また、同じ日に同じ書類で窓口チェックを受けたにもかかわらず、妻と滞在許可証の有効期限が半年違ったこともありました。
まあ、領事館ではそんな軽い洗礼を受けたりしましたが、特に問題もなくビザが下りました。
ただよく勘違いされることなのですが、留学ビザの有効期限は1年間しか無く、1年以上の留学の場合は現地での滞在許可証を得るために必要な物であり、ビザだけで全留学期間の滞在を許可されているわけではないのです。
そして、そんなイタリアの滞在許可証発行は、当時はとても時間がかかることで有名で、ご他聞にもれず私の時もとても時間がかかりました。
滞在許可証は原則としてイタリア到着から2週間以内に出さないといけませんので、イタリアへの再入国早々の2007年8月中頃に申請しましたが、最初の出頭が2008年の2月1日、つまり約半年間放置されました。
それから指紋登録とかで警察署の外国人専用窓口で長い列に何度も並び、結局発行されたのは4月19日でした。
ちなみに、滞在許可証に記載されている発効日はちゃっかり申請した2007年の8月になっていました。(さすがイタリア・・・)
ところで、滞在許可証の有効期限は発効されてからでないとわからないのですが、その時の私の期限は6月9日になっていました。(たぶん学期の終わるころだからだろうと思います)
つまり、受け取ってから一ヵ月半後に滞在許可証の有効期限が切れるって事になります。
こんな感じで外国人は滞在許可証とパスポートを常に携帯しなければいけないはずなのですが、イタリア警察のせいで携帯することもままならない状態だったのです。
ただ、そのかわりに滞在許可証を申請したときの本人控え(みんなはよく半券と言っていました)を持っていればそれが代わりになるようになっていました。
しかし、申請さえすればもらえる半券で約半年間滞在出来、そして許可されなくてもまた申請すれば半券はもらえるわけですから、それが不法滞在の温床になったりもしたので、現在では当時よりは早くなっています。
そういうことなので、4月にやっと滞在許可証が手に入ったのですが、6月9日には早速更新に行きました。
当時のイタリアのシステムは郵便局から書留で各警察署に送るシステムで、郵便局で専用キットをもらうのですが、その記入がとても難しいのでほとんどの人は支援団体にお願いします。
(初めてのときは郵便局でキットをもらった時に支援団体をいくつか教えてもらえたりします。)
私が行った所はイタリアで最も大きい労働組合団体の一つである CGIL という所にお願いしました。
教会系の支援団体とかも多いようです。
このように滞在許可を手に入れるのにもなかなかに大変でしたが、実はイタリアを含むシェンゲン協定締結国は、観光・出張などを目的とした短期滞在(180日間のうちの90日以内)用の圏内共通のビザである「シェンゲン・ビザ」を日本国発行のパスポート保持者に免除しています。
まあつまり、日本人はビザ無しでも半年の内の3ヶ月間はEUに滞在できるのです。政府の外交努力と先人の礼儀正しさのおかげですね。
外国での生活と言えばみなさん言葉をベラベラしゃべらないと生活できないとお思いでしょうが、実は全く現地語をしゃべらなくても生きていけるのです。
スーパーマーケットなどで買い物をするだけならイタリア語を一言も話さなくても表示される合計金額を払うだけで買う事が出来るので楽勝です。
一人暮らしをしたことがある方なら、この日本での生活でも一言もしゃべらない日があったのではないでしょうか。
イタリアで3か月滞在するだけなら金銭的余裕があれば誰でも簡単に可能だったりしますよ。
学校生活
さて、滞在許可証でああだこうだとしているうちでも、学校は始まりますので通うわけですが、クレモナのバイオリン製作学校は日本の一般的な学校と大きく違うところがいきなり初めにあります。
それは、式典が無いこと。
つまり、入学式から始業式、終業式、卒業式に至るまで全く式典をやりません。
なので、初日でいきなり授業が始まります。
ただ、いきなり授業では何時、何処に、何を学びに行かなければいけないかがわかりませんから、事前に学校の掲示板に貼りだされる時間割を確認しておかないといけません。
そうなると、間に合わないとか勘違いしていて授業にいない人も出てきます。
でも大きな問題になりません。なぜなら、当時は必要な出席率が6割となっていたため、ちょっとぐらい、いや、結構休んでいても落第しなかったり卒業出来たりしました。(今はどうか知りませんよ)
すでにお話しましたが、6月の入学試験に来れなかった人のために8月の試験を受けた人は、本国での手続きとかがあるので9月の始業に間に合いません。
それでも、問題無く進級できるわけです。
そんな感じで日本の一般的な学校とは違い、とってものんびりした感じで学生生活が進んでいきます。
クレモナのバイオリン製作学校は日本の高専とだいたい同じ立ち位置ですから、始めの3年間は高校の一般教養科目の比率が多かったです。
Italiano: イタリア語
Storia: 歴史
Scienza: 科学
Matematica: 数学
Inglese: 英語
Diritto ed Economia: 法律・経済
Religione cattolica: 宗教(カトリック以外の宗教も習う:道徳的な側面が強い)
Educazione fisica: 体育
といった科目が始めの3年間では多くありました。
その上で、他にバイオリン製作に特化した教科として
Disegno: 製図
Fisica acustica: 音響物理
Studio dello strumento: 楽器演奏
Culutura musicale: 音楽史・楽典
Tecnologia dei materiali e dei processi produttivi : 木工技術知識
Laboratorio di vernice: ニス
Laboratorio di manutenzione e riparazione: セットアップと修理
Laboratorio di liuteria: バイオリン製作
となっていました。
これらの上に4・5年生になるとバイオリン製作は以下の3つのコースを選択することになります。
Laboratorio di liuteria: バイオリン製作
Laboratorio di pizzico: 撥弦楽器製作(リュート・マンドリン・ギター・ハープなど)
Laboratorio di restauro: 修復
その上で、外部からマエストロが来てバイオリン製作を学ぶ授業もあります。
私達は日本でバイオリン製作と修理をすでに学んでいたのと、コース選択しても外部のマエストロからバイオリン製作が学べることから、撥弦楽器コースを選びました。
また、Liuteria(弦楽器製作家)という語源が「リュートを作る人」の事を表していたことも理由のひとつでした。
その中で妻はリュートを、私はクラシックギターを製作しました。
それらの楽器は今でもクレモナの学校に残っていて、過去の学生たちが作った楽器のうちの一つとして保存されています。
ただ、このコースは不人気で、私達の時は選択する学生が多かったのでたまたま選択できましたが、やらない年の方が多いです。
その時のマエストロはEzio Scarpiniというサンタクロースみたいな風貌の人で、今はたぶん引退してしまったので、もしかしたらもうコース自体が無いかもしれません。
Lboratorio di piccico のMaestro Scarpiniとその仲間たち
真ん中の白衣を着ているのがMaestro Scarpini
卒業前には卒業論文を作らなくてはならず、イタリア語の先生が私達外国人の拙いイタリア語を頑張って直してくれます。
真面目な学生は早い段階で小出しに先生のところに持っていくのですが、不真面目というかズボラな学生はギリギリの所で一気に先生のところに持っていくので、先生もキリキリしていました。
私の卒業論文のテーマは「ノコギリ」、妻は「リュートのロゼッタ」でした。
この論文についてはまたの機会にお話したいと思います。
そして、最後に卒業試験があります。
卒業試験とディプロマ
卒業試験:Esame は今までの教官が並んだ前で、口頭でやり取りし合否を決めます。
聞かれる内容は今まで習ってきた内容や卒業論文についてです。
ただし、今までの授業態度や出席率、定期試験などですでにほぼ合否は決まっています。実際、明らかに合格できる人しか卒業試験を受けられないので「卒業試験を受けられる=卒業できる」といった感じです。
その卒業試験が終わると、前後で順番待ちしていた同級生達に拍手をもらったりして、卒業式がない分この卒業試験がある意味式典のような感じでした。
さて、晴れて卒業できたわけですが、卒業式が無いので卒業証書(ディプロマ)はもらえていません。
どうするかと言うと、事務局に申請して作ってもらいます。案外ぼんやりしてそのまま帰国しちゃった人もいるんじゃないでしょうか。
この卒業証書、実は最終成績も記載されています。
私は80点、妻は85点でした。
「そこそこ良い点で良かったー」と思いましたよ、ええ。
ちなみに、日本と違ってこの証書が本当の証明書で、「卒業証明書」が必要な場合はディプロマのコピーが文字通り卒業証明書となります。
日本は賞状的な卒業証書は卒業証明書では無いですよね。
この学校生活の中で、イタリアは日本とは大きく文化や考え方が違うことを理屈ではなく体で実感しました。
その後、イタリアに3年ほど残って弟子生活を送り、その間に長男が生まれるなど色々ありましたが、7年間の留学期間を終わりにして帰国することとなりました。
帰国
日本に帰国してからいきなり開業というのもありだったのですが、クレモナでの学校生活中から他の国の人達に授業内容を教えてあげたりしていた経験から、講師という選択肢に興味が湧き、妻の卒業した専門学校にコンタクトを取って講師になる道を選びました。
そこから3年半は中部楽器技術専門学校の常勤講師となりましたが、特別に楽器製作を副業として認めてもらいました。
これは、国際バイオリン製作コンクール「トリエンナーレ」に出展したかったのが一番の理由で、そのためには日本弦楽器製作者協会に入会する必要があり、入会するなら毎年行われている弦楽器フェアには出展したいと思ったので「結果副業になってしまう」ということで特別に許可してもらったわけです。
なので、ある意味ひっそりと開業していたとも言えます。
専門学校の常勤講師の仕事は平日の朝から晩まで働いていましたから、普通の楽器工房の開業なんて到底無理でしたが、楽器製作は深夜や早朝などの空いた時間をやりくりして何とか1年に1挺のペースで作っていました。
そうこうしているうちに、ある転機が訪れます。
教えていたバイオリン技術の専門コースが閉講となったのです。
それを機に音楽サービス創造学科の専門課程を教える非常勤講師になり、空いた日が増えることになったので、2018年に一宮の妻の実家で開業をすることにしました。
ちょうどそのタイミングで実家のリフォームもしていたので、一緒に倉庫を店舗兼工房に改装してもらい、今に至ります。
おかげさまで今は沢山の人たちのご縁に恵まれて、だんだん知ってもらえるようになって来ました。
――――――――――
以上が私が製作家として今に至るまでの道のりです。
志を持ってから2018年の開業までは17年くらいかかってしまい、それなりに経験を積んだとはいえ、これでも「製作家」としては「ひよっ子」です。
まだまだ私たちの楽器はさほど世に出ていませんが、焦っても結果が伴わなければ意味がないと思っています。
焦らず、しかしやるべき事は怠らずに、地道に努力していこうと思います。
最後に私が尊敬する彫刻家、平櫛田中の言葉で締めくくらせて頂きます。
不老 六十七十ははなたれこぞう おとこざかりは百から百から わしもこれからこれから
平櫛田中
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