選択的夫婦別姓について
標記について。
前からひとこと書きたかったので、強めになっているかもしれません。
高裁判決が出ましたね。法律論に沿った、しごく普通の内容でした。
それはさておき、反対派の主な意見がサイボウズ社長によってまとめられていて、残念ながらだいたいこんなのばっかりだよなと、読んでいて辛いのですが、どうしてどこにも出てこないのか理解不能な理由がひとつあります。
その理由のために、私の立場は「時期尚早」つまりは現時点では反対です。
反対理由→『同姓の人が』(社会から)いじめられる。
異姓の子供への嫌がらせばかり話題になりますが、いや、深刻に懸念すべきはむしろこっちでしょ!?
最初は、
「同姓にしたい人は同姓でいい、異姓を無理やり強制はしないよ」
で始まっても、じきにマスコミが
「異姓がブーム、みんな乗り遅れるな!」
と始まり、しばらくすると
「世界では異姓が普通、未だに同姓な人って、なに考えてるの?(汗)」
になって、しまいには
「同姓なんて信じられない! まともな人間のやることじゃないわ!(怒)」
になって、同姓であることが差別や罪のように語られる。
大げさだと思います?私は思えません。
だって推進したい理由が「経済的、時間的な損失」「耐え難いアイデンティティーの喪失の苦しみ」「どちらにしても良いという建前のもと、96%は妻が変更させられている。因習による男女平等意識の欠如」ですもの。
これらに面と向かって、
「私は同姓にしたいからするの!誰にも迷惑かけないでしょ」
という発信が、幼稚な感情論以上の取り扱いを受けられると思いますか?
前例があります。くしくも推進派の方がよく持ち出す明治時代です。
散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする
という言葉。これには対になる(※ほんとは3つで一セットですが…)言葉として、
チョンマゲ頭を叩いてみれば因循姑息の音がする
というものがあります。
この意識のもと、古いものは皆悪だと、悪名高い廃仏毀釈が行われました。
以降、鬼畜米英しかり、終戦後しかり。近くは偏差値教育に対する、手繋ぎ徒競走のゆとり教育でもいいですよ。いったん火がついたら中庸が取れないのは、歴史が証明しています。
まして、今回は自由と平等という「錦の御旗」です。「同姓の者=人権を理解しない野蛮人」として、一度変わった世の中は、同姓派を『迫害』にかかるでしょう。ただ、同じ姓を選んでいた、それだけの理由で。
よくて「いつの時代に生きてます?いまは現代ですよ?」大抵はヘイトスピーカーや北朝鮮のような全体主義の信奉者、ぐらいの勢いで、社会的に抹殺されるような烙印を押されるでしょう。内定取消ぐらい食らうかもしれませんね(笑)
しかも、今から選ぼうとする方だけでなく、既に同姓を選んでいた方にも、その刃は及ぶでしょう。
(※私はそこまで断言はしませんが、この過程で、従来の反対派が危惧する「社会の崩壊」が出るかもしれませんね。日本の戦争責任とかみたいに「なんでママ(おばあちゃん)に同姓を強制させるような酷いことをしたの!」「人権意識がない毒親なんて消えてなくなれ!」と、過去に「平和に」生きていた人の人生を根本から否定するという形で)
「僕はそんなことしません」「私は憲法にかかれた権利を守ります」なんて言葉は、何の助けにもなりません。
大人と子供の考え方の違いを分けるひとつに「良い・悪い」ではなく「ある・ない」で考えているかというのがあります。
不倫の炎上ひとつとっても、倫理的に悪い者は徹底して叩く現代。誓って「そんな流れにはならない」と言えますか?
(※そんなことはありえない、と言えとは言いません。何したって悪いことをやる奴は必ずいるはずですので)
だったら。
いまの流れ、つまり「困っている領域だけを都度変えていく」で、十分でないかと思うのです。
一方的な蹂躙を生むより、誰かに不利益を与えたとしても、コストとやらを払いつづけて討論できる状況の方がまだましです。
「同姓の方の危険は承知だが、それでも自分の思いは裏切れません」なら構いませんが、そう言ってほしいです。
私は「利己主義者」と言って反撃します。
「いじめ、カッコ悪い」が堂々と言えるような成熟した社会を待ってから、提案したらと思いますが、違いますかね。