その他大勢の自覚を持つことは大事
一回生ゼミ。
私の声が出ないので、急遽内容を変更して板書の仕方について行う。
自分の名前を書かせて、全員添削。
『バッサリと、優しくとどちらがいい?』
と小さな声で確認したら
「ある程度ばっさり」
という返事だったので、笑顔でバッサリすることに(^^)。
◆
名前を見ていたら、こんな感じの学生がいた。
苗字が、藤と不二のような違い。
名前が、正一(まさかず、しょういち)のような違いで間違えられそうな名前の学生である。
『これは、どちらが正しいの?』
と聞くとむっとした表情で
「◯◯です」
と答える。
(ああ、やっぱりそうか)
と思う。
この学生は、自分の名前をちゃんと読んでもらえないことにいらだちをずっと持ちながら授業に参加して来たんだなあと。
◆
『んーんとね、君がいらだっても仕方がないよ』
と私は言う。
学生はちょっと驚いている。
『君は、先生が自分の名前をちゃんと呼んでくれないことに対して不満を持っているでしょう。でもね、これは国語の教師の私が読んだって、どちらが正解かは分からない名前です。どっちもあるからね。にもかかわらずちゃんと呼んでくれなかったということでムクれるのは、まあ、高校生までだろうね』
「?」
『君は正しく呼んでもらって当然だと思っているでしょう。確かに、高校まではそれで良かったかもしれない。でもね、社会に出たら、君はまずは「その他大勢」なんだよね。それにもかかわらず、自分の名前をちゃんと呼んでくれなかった人に対して、不満の表情を示しても、何もいいことはないし、寧ろマイナスになると思う』
苗字も名前も、自分で決めたものではない。祖先や家族が決めたもの。言ってしまえば、名前を聞いた私には何の関係もない。落ち度もない。寧ろ(間違えて申し訳なかったなあ)と思っている。
思っているが、君がそういうムクれた態度をとっていると
(いや、私には落ち度はないし。寧ろこっちは被害者だし)
と思うようになる。
『間違えられやすい名前であったら、自分から相手が一発で覚えるような、自分の名前に関するプレゼンができないとダメなんだな』
『正しい名前を、簡単に正確に覚えて頂ける方法を、あなたが準備しなければならないわけです。覚えてもらえなかったら、あなたが悪いのです』
そう考えていくのは、相当のパラダイムの変更になるのだと思っています。
『間違えて読んでしまった人は、それなりに申し訳ないと思っている。だけど、君がそう言う顔をしたら気分が悪いもんだよ。「すんません。自分でもときどきどっちかわからなくなるので、〜風に覚えています。それで覚えて頂けませんか?」なんて言われたら、申し訳ない感じ、気分の悪さも吹っ飛ぶでしょ。その〜を考えるのが君の仕事。プレゼンテーションの基本中の基本ね』
実際、大事に大事に育てられて来た子どもたちには、自分の名前を間違う方が悪いのではなく、間違えさせる方が悪いと言われるのは初めてなので、驚きは大きいのですが、社会に出ていくためにはここをキチンと説明していく必要があると思うのです。
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