生成AIの講座を終えて
大学の前の田圃に水が入った日に、明日の教室での生成AI講座を実施した。去年に引き続き二度目である。この1年間で生成AIは長足の進歩を遂げたので、一度目とはかなり違う内容になったものを行った。
13:30から17:00までと言うことで、私としてはやはり時間が足りなかった。演習をどんどんやりたかったのだが、足りなかった。しかし、基礎基本の説明と、小さな演習を通して、現状の生成AIの実態を理解してもらえたのではないかと思う。
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生成AIは、本当にさまざまなものを生成する。
(そんなものまでもが?)
と私も何度も思ったものだ。
昨日の講座では、「受講者が、小さな叫び声をあげる」のが私の講座内での目標であったが、この目標は達成されたと思う。また、叫び声よりも、その凄さに、沈黙するという状態も発生していた。息を呑むと言う感じである。
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生成AIは生成する。
だから、「作文」を担う部分が大きい。
しかし、私の中では、「作文」より「読み」の方が、実は生成AIの活用では比重が高くなるのではないかと思っている。
どんどん文章を生成していくので、文章の量が非常に多くなる。
その文章が正しいかどうかを確認したり、新しい知識を手に入れるために、どんどん文章を読むことになる。
今までは、「自分に興味のある文章を読む」であった。いや、そんなの当たり前で、それ以外に方法はなかった。しかし、すでに、「自分に興味のある文章を生成AIに書かせ、それを読む」と言うことが可能になったと言える。
さらに、自分が書く文章のサンプルを生成AIに書いてもらうなんてこともできるようになったと思う。
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たとえば、遠足の感想文。
生成AIを使って書くのは、ダメだ!とみんなが口を揃えて言うが、本当にそうなのだろうか?
私は、契約書がよくわからないでいた。
だけど、生成AIで自分が興味のあることに関して契約書を書いてみた。すると、契約書の構造がよくわかり、他の契約書も読めるようになった。
遠足の作文が書けない子供が、生成AIで作文を書いてもらう。それを読んだ子どもは、
(ああそうか、こうやって書けばいいのか)
とヒントを得て、書けるようになるのではないだろうか。
これってダメなことなのであろうか。
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パラダイムシフト。
本当に、この言葉だと思う。
今までできなかったことがいとも簡単にできるようになってしまった。
すると、それを苦労してできるようになった人にとっては、「ずるい」と感じることもあるのではないかと思う。
確か、洗濯機や炊飯器ができた時、それを使う嫁に対して「ずるい」と思った姑が結構いたという話を読んだことがある。これと同じことが、生成AIでも起きているのだと思う。
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でもね、社会の進歩というのは
「今の子供はいいなあ」「今の若い人はいいなあ」
と、大人が思うようにしていくことでもあると思う。
パラダイムが変わった今、その新しいパラダイムをベースにして、仕事なり生きることなりを考え直して、やっていく必要性が出てきた。昨日の講座をやりながら、この思いをますます強くした。
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京都まで行くのは大変だという方でも、10人集めてくだされば、可能な限り私の方から伺います。
現地で生成AIの講座を行います。本当に、一刻も早くChatGPT-4を始めるべきだと思います。
人類400万年の歴史の中で、一番大きな変化の中に今まさにいるのですから。