【小説】三年目(8)トランペット少女との出会い
大人になればすぐに忘れてしまうような日々を過ごしているうち、中学二年生になった。
ゴールデンウィーク明けの初日、宿題をうっかり忘れたせいで、居残りさせられてしまった。フジばあちゃんちで落語のビデオばかり見ていたので、休みボケしていたのかもしれない。
追加で出された課題を終わらせて、急いでばあちゃんちへ向かおうとすると、教室の外から聞き馴染みのある曲が耳に入ってきた。
音の鳴っている方へ目をやると、窓際でひとり、トランペットを吹いている女子生徒がいた。窓の外へ向かって、伸びやかな音で、堂々と吹いている。窓から差し込む光が、トランペットに反射して、彼女が光を放っているように見えた。
トランペットを吹いていたのは、今年初めて同じクラスになった杉本美香だった。背が低くて、ふくよかな体をした女の子だ。ろくに話をしたことがないけれど、いつも優しく微笑んでいる姿が印象的で、気になっていた。
彼女が奏でるトランペットの音色によって、夕日に染まった海と桟橋が、私の頭の中に浮かび上がってきた。
よく知る曲を演奏しているのが嬉しくて、思わず近寄って声をかけた。
「それ、前の金曜ロードショーの曲だよね」
急に話しかけられたことに驚いたのか、杉本さんは肩をビクッと震わせた。それからゆっくりと私の顔を見て、ほっとしたような表情を浮かべた。
「うん。『フライデー・ナイト・ファンタジー』って曲。よく知ってるね。この曲に気付いたの、同級生では森田さんが初めて。今の金曜ロードショーのオープニングは、映写機を回しているおじさんだから、みんな知らないの。気付いてもらえて嬉しい」
「うちのばあちゃんが、昔の金曜ロードショーのビデオをよく観てるから。この曲、いいよね」
「へえ、おばあちゃんが…。あのトランペットの音色、すっごくカッコいいよね」
「あれってトランペットの音だったんだ。確かにめちゃくちゃカッコいい。なんていうか、トランペットの音って、闇を切り裂く黄金の剣って感じ」
そう口にしてから、初めての会話にしてはら馴れ馴れしすぎたかと思った。早口で「あ、なんか中二病みたいな言い方しかできなくてごめん」と言って、申し訳なさそうな顔を作った。
私の顔を見て、杉本さんはふっと笑った。
「派手で、やかましくもあるけどね。この前なんか、ここでトランペット吹き始めたら、雀さんたちがびっくりして、飛んで行っちゃった」
フジばあちゃんや私と違って、彼女の笑顔には静けさがあった。
「森田さんって、おばあちゃんと一緒に住んでるの?」
「いいや。私、部活やってないから、放課後にばあちゃんちに遊びに行くのが恒例になってるの。うち、お父さんいないし、お母さんは仕事で忙しいから。平日は、だいたい、ばあちゃんちに行ってる」
「いいなあ。うらやましい」
「どうして?」
「私のおばあちゃん、ボケちゃってて、まともに会話できないから」
「そうなんだ。でもまあ、うちのばあちゃんは、普通じゃないから」
「普通じゃないって、どういうこと?」
「まれにみる毒舌家! そんで、態度のでかさは、太平洋の如し!」
私がふざけて言うと、杉本さんは笑いながらも、会ったことのないばあちゃんのフォローをはじめた。
「歳を取ると、偏屈になっちゃう人もいるっていうし…」
「いいの、いいの。そんな気を遣わなくて、大丈夫。うちのばあちゃんは、昔っから、性悪だから」
「そんなおばあちゃんなのに、会いにいくんだ」
「相手できるの、孫の私くらいだから。孫には甘いばあちゃんで良かった」
杉本さんと話をするのは、不思議と心地が良かった。もう少しおしゃべりしていたいと思ったけれど、手を振って別れた。