【小説】エシカルな私たち ⑱(就職~退職)
大学卒業後、予定通り食品メーカーに就職し、一ヶ月の本社研修の後、関西郊外の工場に配属された。会社が契約したアパートから、大学入学前から使っている赤い自転車で、工場まで通勤するようになった。私の自転車は、定期的に自転車屋のおじいさんに見てもらっていたおかげで、今でも私をどこへだって連れて行ってくれる。
工場管理として、直属の上司である、堤さんに仕事を教わることになった。堤さんは、存在感の薄い、四十代の男性だった。
「まず山野さんには、原料の発注をお願いするから。今までの製造実績を参考に、必要な物や量を想定して発注して。最初は分からないやろうけど、俺も一緒にやるから。ゆくゆくは、工程管理もやってな」
堤さんは発注票の束を片手に、一枚一枚、説明を始めた。
ある発注表の中に、卵黄の文字があるのに気付いた。
「うちで使ってる卵黄って、海外のやつなんですね」
「海外のをまとめて輸入した方が安いから、まあ、当然やろ」
「原価は安ければ安い程いいですもんね…」
腑に落ちないまま、次の発注票に目をやると、見たこともない化学物質や防腐剤の名前がたくさん含まれていた。
「この原料って、何のための物なんですか?」
「そんなことは考えなくてええから。早く仕事覚えてな」
堤さんの冷たい態度に気圧され、業務以外の質問が何もできなくなった。
基本的に工場内の事務所で仕事をしているが、毎日のように、工員たちが不平不満をぶつけてくる。立場上、それを聞いて諫めるのは、堤さんの仕事だ。堤さんは覇気が全くなく、いつも何かを諦めたような目をしている。組織では個人の意思は排除される。組織で働き続けるためには、何かを諦めることに慣れなければならない。その点、堤さんは組織に上手く順応できていると言っていいのかもしれない。
一方、私は全く順応できずにいた。よく分からない化学物質や防腐剤が、将来人体に悪影響を及ぼすのではないか。海外から大量の原材料を安く輸入しているが、売れ残りが大量に廃棄されている。自分の仕事は正しいと言えるのだろうか。働けば働くほど、不安と無力感が押し寄せてくる。工員たちとのやりとりも任されるようになると、余計に苦しくなった。
想像以上のストレスで、早くも胃がやられそうになった。それでも、昼食の時間だけは一息つけた。会社には大きな食堂があるが、節約のため、手作り弁当を持参するようにしている。この頃は料理する気力が無く、冷凍食品に頼ってばかりだ。
堤さんは、いつも親子丼を食べていた。このことが気になって、つい質問してしまった。
「堤さんて、どうしていつも親子丼食べるんですか?」
「そりゃあ、うまいからや。当たり前のこと聞くな」
「えぇ…。なんか、すみません」
「謝んなや。ちょっとふざけただけや。」
私の反応が気に入らなかったのか、堤さんはふて腐れた顔をした。堤さんもふざけることを知って、なぜか安心した。
「鶏さんってすごいやんか?」
「え?」
「食べようと思えば、丸ごと食べれるやん。鶏冠から足まで。それに卵まで食えるって、そりゃあ、もう最強やんか」
「そんな理由で?」
「そんな理由とか言うなや。鶏さんへのリスペクトが止まらんから、食べずにいられへんねん。まあ、一番は美味いからやけどな」
それから照れたように何を食べたってええやろと言うと、堤さんはガツガツと親子丼を食べ始めた。私は鶏さんが褒められたことが心底嬉しかった。実家の、平飼いの丘さんの鶏さんたちに、また会いたいと思った。
この昼食時の会話をきっかけに、少しずつ、堤さんと仕事の仕事の話ができるようになった。
「この会社で働いてて、やりがいとかありますか?」
「やりがい? そんなん無いよ。金稼がなきゃ生きていけへんやろ。金のために働いてんねん」
「ですよね。そんなもんですよね」
堤さんに同調して、苦笑いするしかなかった。
「なんや。もう辞めんのか?」
「辞めないですよ。私もお金のために働かなきゃいけないですから」
「そうか。ならええけど。まあ、働いてりゃあ納得できんことも多い。けど、うちの会社は、世の中の人に食べ物を供給できるって点では、間違いなくええことしてる。あんまり思い詰めんとってな」
堤さんは相変わらず生気のない顔で話していたが、言葉の端に、優しさが見えた気がした。
堤さんの真似をして、食べ物を供給する素晴らしい仕事をしているんだと、自分に言い聞かせて働くようになった。
次第に仕事にも慣れ、不安感が減っていた、入社一年目の二月、堤さんに会議室へ呼び出された。堤さんの表情に、いつもより陰が見えて、妙な胸騒ぎがした。
会議室へ入ると、入社前後に数回会ったことのある、人事部の人がいた。堤さんは黙って下を向いていて、人事部の人が一方的に話し始めた。
「山野さん、今、どこの工場も人手不足でね。急で悪いんだけど、別の工場に異動してもらえないかな? 少しだけど地域手当も出るし、悪い話ではないと思うんだ。それに、これは新しい場所で、山野さんが成長するチャンスなんだよ」
これは事実上、こちらが断る権利のない、異動辞令だった。あまりに急で、気の抜けた返事しかできなかった。
よく知りもしない人事部の人が、作り笑いを浮かべて一方的に話をしているうちに、私は別の工場へ異動することが決まった。それからは、異動や引っ越しについての説明があった。
話が終わると、人事部の人は足早に会議室を去っていった。それを、堤さんと二人、呆然と見つめることしかできなかった。
「山野さん、大丈夫か?」
「分かりません」
「俺は嫌な予感しかせえへん」
「…珍しいですね。同感です」
堤さんは大きなため息をついてから、薄い髪の毛を雑に掻いた。
「うちの会社、新人の扱いが荒いねん。入社して一年しか経ってへん人間を、知らない場所に異動させたって、すぐ仕事できるはずないやろ」
「こういうこと、多いんですか?」
「うん。多い。多すぎや。だから若手は続かへん」
堤さんはイライラを発散しようとしているのか、隠すこともなく、大きな貧乏ゆすりを始めた。
「山野さん、ヤバいと思ったら、すぐに辞めや」
「え、それは嫌ですよ。すぐに転職できるか分からないし」
「それもそうやな…。まずは休職してみるのが無難か。まあ、会社にいる間は、一応俺は君の先輩やから。困ったら、いつでも電話でも、メールでもして」
そんな会話をして二か月もしないうちに、私は別の工場へ異動した。
異動後の仕事は、以前より比べ物にならないほど過酷で、ただでさえ多かったストレスは何倍にも増えた。
やったことのない仕事や前任者が放り出していた仕事を押し付けられた。分からないことを上司に質問しても、なぜ分からないのかと詰問される。小さなミスに対する説教が何時間も続く。説教で失われた時間の分、遅れた仕事のことを、口汚い言葉で罵られる。昼休みも、定時後も、仕事に追われるようになった。
そのうち、上司に隠れて、休日出勤までするようになった。もちろん給料は出ない。職場には、私のことを気に掛ける人は誰もいない。とてつもないスピードで、心と体が疲弊していった。
異動して半年も経たないうちに、身体は悲鳴を上げ始めた。
まず、朝早くに起きられなくなった。そのせいで、日課だった弁当作りが出来なくなった。食欲がないので、昼食を抜くことが増えていった。
次に、化粧が出来なくなった。私の化粧は、ベースを塗り、アイメイクをしてリップを塗るくらいの、ごく簡単なものだったはずだ。それなのに、やり方を忘れてしまったかのように、化粧をしようとしても、体が上手く動いてくれなくなった。仕方がないので、マスクで顔を隠して出勤するようになった。
しばらくすると、夜も眠れなくなった。睡眠時間が減るにつれて、何をするにも気力が無くなっていった。しまいには、気を緩めると、なぜか涙がこぼれるようになった。口に入れた物を嘔吐し、一睡もできないまま朝日を迎える毎日を過ごしていた。
この苦しくて、苦しくて仕方のない現状から、逃げ出すにはどうしたらいいのだろうか。仕事を辞めれば少しは良くなるだろうが、奨学金という借金を背負っている今、辞める気にはならない。
考えることすら苦しくて、このまま消えてしまいたいとさえ思ったとき、里依紗のことを思い出した。彼女もこんな絶望的な気持ちになって、仕事を辞める決断をしたのだろうか。全てを終わらせるとしても、せめて最後に里依紗の声が聞きたい。そんな思考に陥ると、気付けば電話していた。
「シモシモー、チャンモモー?」
「里依紗。里依紗だ…」
里依紗の声を聞いただけで、涙がふっとこぼれた。
「え、なに?どしたの?」
「会社で異動があってから、本当仕事がキツすぎて…。最近は眠れないし、ご飯食べたら吐いちゃうんだけど、どうしたらいいかな…?」
「なにそれ! そんなん、仕事なんか出来る状況じゃないじゃん」
「そうだけど。働いて、お金を稼がなくちゃいけないし…」
「自分の体より、お金が大事なの?」
里依紗の問いかけに、私は応えることができなかった。
何も言わない私にしびれを切らしたように、里依紗は大きなため息をついてから、別の質問をした。
「今の仕事、この先も続けたいの?」
「分かんない。でも、私に向いてないことだけは分かる」
「仕事なんか探せばいくらでもあるけど、桃子の命は一個しかないよ。仕事に、会社に殺されちゃうなんて、悔しすぎるよ。やりたくない仕事なら辞めれば。とにかく今は病院行くか、休むかしなきゃ」
いつになく真面目な里依紗の声色に、私は「うん。決めた。辞めるわ」と口にしていた。
するといつもの明るい口調に戻った。
「そっか。いっそ東京、来る? アタシと一緒に暮らしちゃおっか?」
「ふざけないでよ。でも、ありがとう」
「フッフッフッ。久々に桃子にありがとうって言われて、テンション上がったわ」
里依紗の優しさが、明るさが、私を救い上げる。
「里依紗、ごめんね」
「えっ、なにが?」
「いつも里依紗に助けられてるのに、私は里依紗に何もしてあげられてないから」
「なに言ってるの? 気付いてないかもだけど、私、桃子から、たくさん、いろんなものをもらってるよ」
「本当に? そうかなぁ…」
「そうだよ。直接会えた時、伝えるから。今はとにかく休んで」
「わかった。そうする」
「病院も行きなね。心療内科とかがいいかも」
「行きたくないなぁ…」
「仕事のせいでこんだけ体調悪くなっちゃってるのは確かなんだから。心療内科とか精神科に行くっきゃないよ。大丈夫、少しはマシになるはずだから。絶対行くんだよ。約束。じゃあ、またね」
電話が終わると、気が緩んだのか、少し寝ることができた。
翌日から、私は仕事に行くことを辞めた。まず、一番近くにあった心療内科に行ってみた。一通り診察が終わると、今すぐ休職すべきだと伝えられて、薬を処方された。
休職しても、復職後に元気で働くことができるか不安があった。いっそ辞めてしまおうと、会社に退職願を提出した。入社して二年経つ前の、冬の出来事だった。
すぐに退職願は受理された。堤さんに退職することをメールで伝えると、「幸運を祈る」とだけ返信があった。
退職後もまだ体調は悪いままだったが、もう仕事に行かなくてもいい安心感はあった。気分だけは少し晴れていた。
人類に未知の感染症が広がり始めたのは、退職から一ヶ月も経たない頃だった。