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死んだらどうなるのか?を読んで思うこと

死んだらどうなるのか?死生観をめぐる6つの哲学
伊佐敷隆弘(著)

お葬式に参列することがあり、死んだらどうなるのか?とあらためて思いました。死後どうなるかは話としては何百ともあるそうですが、主なパターンは6つだと説明されている本があることを知り、買って読んでみました。

小学4年生くらいでしたが、寝る前にふと死んだら自分の意識がなくなってしまい、何も考えられなくなってしまうと想像し、自分がいなくなってしまうことにめちゃくちゃ怖くなった記憶があります。パターン6の「完全に消滅する」で当時は考えていたみたいです。今は死生観は、5の「自然の中に還る」も少し含まれつつの6な感じなので、当時とあまり変わってなかったです。

表紙です。周りの絵が素敵です。

どんな本か

先生と話をする学生との会話で話が進んでいくので、難しい言葉もなく読みやすいです。死んだらどうなるか?の6パターンが仏教や日本の昔からの習俗、キリスト教、物質一元論、などから説明があります。各章終わりにまとめもあって、整理しながら読むことができます。

そもそも魂や心はどこにあるのか?という問題にもデカルトの「我思う故に我あり」で踏み込まれています。が、そこから急に難しくなり、おおっとなり、頑張って読む必要がありました。気づいたら一速に入ってしまっていて、急にエンジンブレーキが効き過ぎてガクガクとスピードが落ちる感じです。そこを踏ん張って進むことで最後まで読めて、確かにそうだなぁと思いながら読み進めることができました。

筆者の思い

他人の死であれ、自分の死であれ、人間は大昔から、「死んだらどうなるのか」について懸命に考えてきたが、皆が納得できる答えはまだ見つかっていない。では、どうするか。これまでに人間が獲得したさまざまな考え方を知った上で、各人が自分の頭で考えるしかないだろう。本書の目的は、そのためのヒントを提供することである。

科学的な考え方と宗教的な考え方の間で引き裂かれているのが私たちの現状だろう。多くの人はどちらにも徹底できずに生きているのではないだろうか。私自身もそうだ。本書では、私たちのそのような現状から目をそらさないように心がけた。それゆえ、本書では。「まず、自分の中にどんな死生観があるのかを意識化し、次に、それらの死生観が前提にしている考え方を理詰めで吟味する」という作業をおこなったのである。哲学の難問に簡単な答えはない。読書の皆さんは、本書の対話をヒントにして、さらに思索を進めていって欲しい。

読んでのまとめスケッチ

左側に追加した1〜6のスケッチのため、順番入れ替えてます。

読んでから思索を進めたこと

お葬式をあげる中で「南無阿弥陀仏」と唱えながらも、自分は消滅すると考えている自分を思うと、考えが矛盾しています。もちろん故人は浄土に行ってほしいので、お経を真剣に聞いているからこそ、尚更不思議な気持ちになります。仏教により浄土へ行くことを願いながらも、自分の死後は消滅すると思っていつつ、周りの家族には近くにいてほしいとおもったり、と6つの死生観の3パターンくらいが同居していることに気づきます。

脱線しますが、「南無阿弥陀仏」は「私は、阿弥陀仏を信じ、阿弥陀仏にすがります」という意味で、浄土には悟っていくか、ブッタにすがるかで行けるので、そう唱えていると初めて知りました。

筆者が書いているように、科学的な考えと宗教的な考えの間にいるからはっきりできないから、矛盾している不思議な感覚になるのかと思いました。年末から年始にかけて、クリスマスでキリスト教、除夜の鐘で仏教、初詣で神道と短時間で3宗教一気に経験する日本人特有の雑食性からくるものかと思ってましたが、キリスト教もクリスマスやハロウィーンは別の宗教から取り入れたお祭りだったりするそうで、その土地その時期そこにいる人で変わってくるみたいで、日本人に限った話ではないとい書かれてました。

・人は雑食性であって、矛盾を持った生き物である。
・その時期、その土地、その生活により人の考えが作られる。
・人が考え、伝えるため、宗教も雑食性であり、その場によって変わる。

と考えられそうです。

ただ、宗教という括りは近代的な考え方で、昔は宗教という括りではなく生活様式のようなものだったので、生活によって宗教が作られるというのは現代的な考えで、昔は生活=宗教なので、尚更その時代に生きていた人たちによる影響をうけたんじゃないかと思います。

近代に進むにつれ、別々の生活を送っていた(別の宗教を持っていた)人の往来や他の宗教の伝来があって、地層のように折り重なって死生観がつくられていく(シンクレティズム、文化的重層構造と呼ばれています)ので、死生観は昔の影響がありながらも、今の時代を反映させたものになっている。そう考えると私の死生観もそれはそう考えてもしょうがない、自然とそうなりえることで、特に変ではないことだと思うことができ、受け入れられました。

そのなかで消滅するという6とそれ以外の1〜5では結構考え方に差があるのは、科学が発展してきたからだと本書を読んでいると考えられます。どちらが優れているという話でなく、むかしは生活が宗教をベースにした認識の世界であったが、今の生活は科学を元にした物質の世界をいきていることによる差かと思います。

その時代でデバイスのOSが違っているような感じで、そのOSが宗教か科学かで異なっており、OSが変わるのでシステムも変わり、インストールされるソフトも変わるようなイメージでしょうか。そういう意味でも今の死生観は、人が死んだら(デバイスが壊れたら)データや個別の設定も消えてなり、完全に消滅するという考え方に繋がっていくのかなと思います。クラウドに個人のデータを上げておくことで消滅後は自然(データベース)の中に還ると考えられるようになるのかもしれません。

物質の存在を唯一とする物質一元論を「唯物論」とも本書に書かれていましたが、三蔵法師の時代は「唯識論」という世界は人の認識からできているので認識を変えれば世界が変えられるという考えがあったそうです。時代が進むとそこからさらに無意識は簡単に変えられないから、その無意識もコントロールするために密教がうまれ、それを学ぶと無意識もコントロールできるようになり、全ての認識を変えられるため、世界を変えることができると考えられたそうです。世界を変えられるため、極めた人は怨霊を祓うことも、疫病も治すことも、人を救うことができる救世主になるということでした。

マトリックスのネオみたいな感じです。こっちの救世主は物質の世界で、自分の認識をコントロールされていることに気がついて目覚めた人なので、唯物論を極めた人?と言ってもいいかもしれません。どちらも極めてしまうと、世界そのものになってしまうようで、死という概念から離れてしまうのでどう思うかはまったく想像がつきません。

ちなみにブッタは、死後については考えてもわからないのだから考えない方が良い、と説いていたそうです。今をしっかりと生きることを考えていたそうでめちゃくちゃ現実的で驚きました。マトリックスは銃弾を避けるシーンしか覚えていないので、現代版救世主のネオがどう思ったかは知りませんが、悟った人がそういうのであれば、「南無阿弥陀仏」と唱えないまでも、今を懸命に生きるという考えにすがって生きるのが結果的には良さそうだと思いました。

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