なぜ学の旅 サイゴンの語源は?広東人命名説の想像
(時事速報 「広州から見たベトナム」2009年12月23日、2010年1月6日を再編したものです)
ベトナムのホーチミン市は1998年に市制300周年を迎えた。クメール人が居住する寒村にフエの広南阮氏の命を受け入植したベトナム人が同地域を平定したのが市制のはじまりとされる。クメール人はこの地をプレイノコールと呼んだが、当時の南ベトナムの広南阮氏によって「ザーディン(嘉定)」と命名され、その後「サイゴン」の呼称が使われるようになった。
さて、サイゴン(Sai Gon)とはどのような意味なのか。先住民を追い出して新しく平定した町なのだから、「大いなる実り」とか「豊かな水」とか「幸せな大地」など大げさな意味があってもよさそうだ。しかし、ベトナム人にSai Gonの意味を聞いても、「意味はないです。地名ですから」ということである。また、現在のサイゴンの漢字表記はSaigonという音を広東語の「西貢」にあてたものだという。当時のベトナム支配層は漢文を使用していたはずなのに、漢字で都市名を命名せず、ましてやベトナム語でもない音をとって地名として定着させたということだろうか。
プレイノコール
サイゴンの語源にはベトナム語説や広東語説、フランス人命名説など諸説あるようだ。クメール語のプレイノコールは「森の町」という意味だそうだ。ベトナム語説によれば、Sai Gonの原意は、中国語の「柴棍(枝や幹の意で意訳すれば森の町なのか)」の音を借用したものとされる。漢字に由来するというなら、なぜ現在のサイゴンの漢字表記が「柴棍」でなく「西貢」なのかが不可解だ。いずれにせよ現代ベトナム人が意味を理解していないSai Gonという名は外来もしくは他民族の言葉が語源であろうと、ますます想像を巡らしてしまう。
現在でもサイゴンという呼称はよく使われる。南北を統一した象徴としてホーチミン市に改名したのに、気軽に皆、旧南ベトナム首都名である「サイゴン」を使う。ホーチミン市をベトナム語で言う場合、Thanh Pho Ho Chi Minhとなる。ホーチミンさんは建国の父であり、偉大なる人であるから、都市名として使う場合、Thanh Phoを頭に付ける必要がある。これは会話の中で使うには長いので、どうしてもサイゴンという短い呼称が多用される。
「西貢」は普通語で読むと「シーゴン」となる。広東語読みでは「サイゴン」であり、ベトナム語読みする際の発音、声調とほぼ同じになる。つまり、サイゴンを西貢と書くことを決めたのは広東人なのである。東南アジアの国名や地名の中国語表記は広東語を介していることが多く、普通語で読むと原音から外れる当て字が多い。外国の事物が海のシルクロードを通って広州から中国に伝来したり、何かと外国へ出ていく機会が広東人は多かったのだろう。サイゴンも一例だが、ベトナムという音も普通語では「越南(ユエナン)」となるが、広東語だとベトナム語の「Viet Nam」の声調と発音にかなり近い「ユッナーン」となる。というより、越南の場合、漢越語だから、最初に漢字で定めた国名があって、ベトナムにおける漢越語の発音が広東語に近いということになるだろう。
中国の長い歴史をみると王朝の交代期に全土で大規模な流民が発生し、飢えと寒さを避けるため多くの流民が南下した。例えば客家(はっか)もそうである。古くは紀元前の時代より政争や王朝交代などの激変が起こる度に、高官位の役人などが一族を引き連れ、都のある黄河流域から脱出した。広東や福建に辿り着いた流民は、平地は既に先住民の耕作地であるため山奥に住むしかなかった。外敵に怯えながら身を寄せ合い、集合住宅というか要塞を築いた。後に土楼と呼ばれるこの客家の住居は今では世界遺産にも指定されるようになった
明清交代
1644年に中国では明朝が清朝によって滅ぼされた。この明清交代は中国内に大きな混乱を与えた。明朝派に対する大規模な粛清が行われ、軍や官吏は敗走し、市民レベルでも大量の難民が発生した。明清交代期も広東省や福建省に到達した流民は先住民を追いやり、畑を奪うなどしたのだろう。華南は一転住みにくい乱世となり、広東人の多くが押し出される様に東南アジアへ逃避した。出稼ぎや一攫千金を狙った移住は後世の話であり、初期の華僑は出生地を捨て命辛々逃げ出した人が多かった。
中国からの大規模な人口移動が波状になってベトナムに押し寄せた。当時のフエの都は流れ着いた広東系や福建系難民を南方へ向けた開拓民、屯田兵として利用した。この屯田兵が得意の稲作技術を駆使してメコンデルタを開墾していった。プレイノコール(現ホーチミン市)に到達するまでどれくらい月日を要したか分からない。明清交代から50年余を経た1698年にベトナムは正式にプレイノコールをサイゴンとして平定したが、屯田兵が一気に押し入り平定したわけではなかろう。先住民のクメール人も当時のカンボジアがタイとの戦争で疲弊するなかでは、入植するベトナム人や中国からの流民を排斥する力をもたなかった。ベトナム屯田兵による事実上の支配がしばらく続き、機が熟した頃合に広南阮氏が平定したということか。
中国の明代末期は悪政だった。重税と戦乱と飢餓に苦しんだ住民は清が勃興する前から祖国に見切りをつけ、難民となってベトナムへと流れ着いたであろう。広東系難民がプレイノコール一帯を稲作地として開拓し、実効的な支配権を握った。その後、明清交代という激震でベトナム中部の広南地域に漂着する難民が激増した。民間レベルの実効支配の上に、国家の領土拡張の意図が乗っかった。もっと言うなら、明清交代の激震と人口移動の圧力はベトナムにまで及び、ベトナムの為政者もその圧力を南に向けていくこと以外に受け入れる手立てがなかった。
西貢
現在の香港の東部に「西貢」という地域がある。昔は漁村であり今でも海鮮料理のおいしい街として知られる。14世紀には南海貿易船(海のシルクロード船)寄港地としてこの西貢の地名が記録されている。西からの朝貢船が停泊するので西貢という地名になったそうだ。南海貿易船はベトナム中部のホイアンにも寄港したから、遂次ベトナムの状況は広東にも伝わってきたであろう。そもそもダナン一帯を広南(クアンナム)地方と呼んでいる事実からして、当時の広東人から見ればベトナム中部は現在の広東省や広西チワン族自治区と同じ地域の南の方という認識であったのではないか。
当時の流民は一族百人以上の規模であり、血縁と地縁で結びついた大集団であった。プレイノコールに入植した先住広東系難民やその後にやって来た広東系屯田兵グループの出身地や出航地が香港の西貢であったとしたら。新天地を求めた屯田兵たちがようやくたどり着いた安住の地に故郷の地名をつけてもおかしくない。実効支配をしていた広東系住民は、「クメール人はここをプレイノコールと呼ぶが、我々は西貢と呼んでいる。」と伝えたかもしれない。ベトナムにやって来た時代は異なるが広東同胞である。「そうか君らも広東人か。フエの阮氏はここを嘉定と呼ぶことにしたそうだが、我々は西貢と呼ぶか」という会話があったかもしれない。いやあったとしたら面白いという想像でしかないが、発意としてはそれほど突飛でもない気がしている。