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なぜ学の旅 ミャンマー今昔③

異臭を探して

ヤンゴンに着いたときに感じたミャンマーの匂いの源を探しに市場(いちば)に足を運こんだ。ミャンマーの市場で最初に驚いたことは、清潔で路幅が広く、売り子に品があり、市場全体が騒々しくないことであった。ベトナムの市場は足の踏み場がないほど散らかっている。魚や豚の肉片や鳥の鮮血、腐った野菜の切れ端などが泥と一緒に捏ねられ、うかつに歩くと汚泥が跳ね上がる。そして、売り子と買い手の激しい掛け合いの喧噪があちこちで見られるのがベトナムの市場である。

ミャンマーの市場に好印象を抱きつつ魚臭さの源を探した。すると強烈な匂いを漂わせている薄紫色をしたアイスクリームのようなものが台の上にこんもり載せられているのを見つけた。ミャンマー人が好んで使う魚発酵味噌であるとのことだった。

売り子達はおそらくは外国人慣れしていることもあろう。あまりジロジロと視線を向けない。ベトナムでは市場に行けば、売り子や買い手の強烈な視線にさらされる。ミャンマーでは、好奇の視線を一瞬投げかけはするが、こちらが気が付く微妙なタイミングで目をそらしている。あまりじろじろ見ては失礼だという礼儀があるのだろうか。市場の売り子に私たちが近付き話しかけると、そわそわとして、照れくさそうに頭をかいたりするのである。

 

ミャンマー料理に唸る

ヤンゴンに着いた初日の昼、ガイドのサンサンユーさんが中華料理屋を手配しようとしてくれたのを制止し「ユーさんはいつも何を食べていますか?」と迫り、普通の若い人たちが昼食をどういった所で食べているのかを聞き出した。地元の人が普段食べているものが最も美味くて安いという固定観念がこちらにあるからだった。「ヤンゴン大学の近くのインヤー湖畔の屋台」と、ドライバーに見せるために行き先をミャンマー語で書いてもらった。その他にも日本大使館、ベトナム大使館、などをメモに記人するようユーさんやホテル従業員に迫るものだから、ユーさんは「寺院にも行った方が良いです」と言ってメモに書き加えた。さらに、私たちが「動物園」や「中華街」行きの要求をするものだから、「寝釈迦寺院にも行って下さい」と言って無理やりメモに記人した。確かに、今夜はこの日本語ガイドのユーさんの家にお邪魔することになっていたので、それほど多くの時間はなかった。必要最低限の行き先だけを回ることにした。

湖畔の屋台街は同じような店構えの露店が3~4軒並んでいて、湖に張り出した小さなテーブルでお茶をすすりながら食べるようになっていた。売り子に、指で「これとそれ」と身ぶりで伝えると、麺や米を洗面器に入れ、そこに何やら怪しげなスパイスや黄色い油、赤い油、きな粉のような粉末を加え、念入りに混ぜ合わせた。見るからにエキゾチックな色をしており食欲を剌激した。「油っぽいチャーハン、または冷めた焼きそば」と表現するとまずそうだが、空きっ腹には何でもおいしく感じたのだろう。あっという間に2皿をたいらげてしまった。さらに、隣の人が食べていた唐揚げのようなものまで指さし、売り子に「これも下さい」と追加した。しかし、道中ミャンマー料理が美味いと思えたのはこの時が最初で最後だった。なぜなら初日のこの屋台飯で大量に摂取した油で胃腸がやられ、同行女性たちは完全にダウンし、普段ハノイでそれほど衛生的なモノを食べていない私たちも、胸焼けや胃腸の不快感に悩まされたからだ。油を大量に使うこの国の料理(特定の料理だけかもしれないが)の仕業であることは明らかであった。

ミャンマー料理はインドの香辛料と中国の油を足して2で割ったような料理である。油が熱ければ結構さっぱりと食べられるものを、ここの人たちは手で食事をするものだから、ほとんどの料理が冷めている。道中、パガンの田舎レストランでおそらく正当なミャンマー料理を食べたが、これは到底毎日食べるには厳しいものだと感じた。ただ、パガンの乾燥した気候や雄大な景色を背に青空の下、箸もフォークを使わずに手でこねくり回して口に運んでみると中々情緒があって、視覚、嗅覚、味覚以外に、触覚でも料理を味わうことができることを知った。「フォークもスプーンも用意されているのに、わざわざ手で食べた日本人は初めてです」と、ユーさんも嬉しそうだった。料理の中に、魚味噌と茄子をトロトロに煮込んだものがあった。恐る恐る手でつまむと「ムニュ」と潰れ、茄子の感触が心地よい。ただ、苦労して口に運んだ割にはそれほど美味しいとは感じられなかった。

修繕中のヤンゴンのパゴダ(2005年4月)

 アウンサンスーチーさんを訪ねて

アウンサンスーチーさんの家を訪問した。出発前にガイドのユーさんに冗談で「僕たちはスーチーさんと15時にアポがあるのでこれから行ってきます」と言うと、「本当ですかぁ」と笑いながら問い返した。「ユーさんも一緒に行く?」と聞くと「私たちミャンマー人はあそこに行くのは危険です。軍事政権側は全ての人の出入りをチェックしているし、毎週家の前で行われる国民民主連盟(NLD)の講演に参加する人や車はビデオで記録されています。ですから、行きたいけど行けません」と真顔で説明してくれた。私たちはスーチー家訪間を冗談のネタに使い、観光名所の一つにでも行ってくるような軽い感覚であったことを恥じた。

毎週末、家の庭に舞台をこしらえて、そこから公道に向かってスーチーさんが書記長を努めるNLDがミャンマー民主化実現のために演説するのである。現在、選挙を実施すれば90%近い国民がスーチーさん率いるNLDを支持すると言われる程、スーチーさん人気は高い。だから軍政側も取り締まりを強化し、ある程度の恐怖政治を実行しなければ政権維持もままならない。こうした強権に対抗するために「民主化圧力」がますます高まることになり軍事政権を苦しめるのである。1995年7月のスーチーさん自宅軟禁解除後、ここに集結して彼女のスピーチに熟心に耳を傾ける若者が3人逮捕されたという。私たちがスーチー家を訪ねたのは1995年の大晦日の夕方であった。スーチー家の50メートル手前で車を降りて門付近まで近づくことにした。旅行会社の車であっても集会場所まで乗り入れるのは危険であるということであった。

タイ航空でバンコクからヤンゴンに入る(2005年4月)

10メートル位の車幅の道路の両脇にある歩道はスーチー支待者が隙間なく埋め、何百人もの人々が整然と腰かけている。車道は通常通り車が往来し、この時間を狙ってやって来る旅行社のマイクロバスの車中から観光客がしきりにシャッターを押している。歩道にはNLDメンバーの若者達が礼儀正しく拝聴者の座る場所を決めたり、車道に立ち止まる人々を誘導していた。若者たちの顔つきは真剣そのもので、NLD幹部のスピーチに聞き入り、時々拍手をして賛同の意を示したりしていた。私たちも端の方に座り、スーチーさん登場を待った。20分ほど意味の分らないミャンマー語の演説をあくび混じりで聞いていると、どこからともなく一人の僧侶が近づいてきて「スーチーさんは病気だから今日は出てこないでしょう」と英語で教えてくれた。私たちは、新年に改めてスーチー家を再訪することにし、その場を去った。

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