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なぜ学の旅 サンダカンにて
(Whenever広東、2011年12月号を再編しました)
ここのところ、墓巡りが続いている。沖縄や福州に続いて、先日もボルネオ島のサンダカン(マレーシア)に赴き小高い丘の上にある日本人墓地に手を合わせてきた。サンダカンで客死した明治初期の「唐ゆきさん」たちのお墓である。ボルネオを旅した目的は、この墓参りのほか、東南アジア諸国連合(ASEAN10カ国)の中で唯一行ったことがなかったブルネイに行くことであった。
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サンダカンのあまりの暑さに挫け、海辺のカフェで怠惰な数時間を送る決意をした。波音と漁船のエンジン音を聞きながらボルネオ島の地図を何気なく広げてそこはかとなく眺めていた。ボルネオ島は南シナ海に面する大きな島であり、インドネシア、ブルネイ、マレーシア領からなる。それは知っていたのだが、サンダカンの沖合の目と鼻の先に浮かぶ小さな島々が、こんなに近くにあるのにフィリピン領であることに驚いた。熱帯雨林の豊富な生活資源に恵まれたボルネオの人たちは、危険を冒してまで海にこぎ出す必要がなかったということだろうか。
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地図を引き続き眺めた。ボルネオ島の北東方向にパラワン島(フィリピン)があった。すぐ近くである。自分の目は地図上のパラワン島に釘付けになった。途端、20年以上も前の古い記憶が海面を盛り上げるようにして蘇ってきた。自分にとって初めての東南アジアは大学3年生の春に行ったフィリピンである。マニラからパラワン島のプエルトプリンセサに飛び、南端のリオトゥバニッケル鉱山までバスで数時間揺られ、そこに投宿した。次に船に乗り半日くらいかけて沖合に浮かぶ周囲1kmもない無人島、バーズアイランドに上陸したのであった。地図でその小島を探すが、無数に浮かぶ名もない小島のどれがその島だったのかわからない。でも、20年前の私はボルネオ島のすぐその辺まで来ていたのだ。
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今回の旅でブルネイに入国し、東南アジア諸国の全てをようやく踏破した。そして、不意に自分と東南アジアとの最初の関わりが、目と鼻の先に浮かぶ島嶼のどれかだったことに気づいたのである。20年という長旅を終え、ずいぶん遠くまで来たなと思ったら、実はそこは旅のスタート地点だったみたいな感覚だった。引き続き東南アジアと関わりなさいという天の声なのか。終わったのではなく始まったのである。カフェでのんびりアイスミルクティを飲んでいる場合じゃないのだ。「こうしちゃいられない」と地図をたたみ、襟を正してサンダカンの散策に改めて向かったのである。