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なぜ学の旅 沖縄の亀甲墓

(時事速報 「広州から見たベトナム」2011年11月30日を再編集したものです)

2011年7月、華南経済セミナーの講師として招かれ任地の広州から沖縄に飛んだ。私にとって沖縄のイメージと言えば、先の大戦で激烈な地上戦が展開された戦争の歴史、米軍基地の存在、青い海と白い砂浜のリゾートなどである。そして、もうひとつ加えるとしたら、初めて見たその時から、その奇妙な造形に度肝を抜かれ、惹かれ続けている沖縄の墓、「亀甲墓」の存在である。広東省や福建省、台湾など華南地域でも海に面した山の斜面には必ずと言っていいほど、形は多少異なるものの、この墳墓がみられる。沖縄が華南地域と盛んな文化交流の歴史を持っていたことを否応なく感じさせる。

ゴルフ向の丘陵にひっそりたたずむ亀甲墓(2011年7月)

沖縄は旅行や出張を合わせこれまでに7回くらい訪れたことがあるが、今回は亀甲墓を巡ってみたいという思いが強く、空港に着くなりレンタカーをして半日走り回ることにした。昔ながらの亀甲墓を求めて、海の見える高台の霊園に行った。亀甲墓もあるにはあるが、現代風の小型のモノで、どの墓も新しい。亀甲墓は山に横穴を掘って石室を作り、その周りに石を築き、コンクリートで固めて亀甲型にする。基本的に古い墓は山肌や傾斜地を利用して建立されているはずだから、ゴルフ場を目指すのが最善の方法だと思いついた。ゴルフ場は小高い丘陵にあるだろうから、その丘を取り囲む道を走れば見つかると考えたのだ。丘を囲む農道を走ると、思った通り、山影に隠れるように巨大な亀甲墓がいくつも顔をのぞかせていた。米軍が上陸した際、亀甲墓をトーチカと間違えて攻撃目標とされたと聞いたことがある。これだけ巨大なコンクリートと石材で作られた墳墓なのだから、大砲や高射砲が格納されていると勘違いしたのも頷ける。

墓を見つける度に車を止め、墓碑を眺めた。大正時代に建立された100年ほどの歴史を持つ苔生した墓もあった。墓の前庭は8畳はあろうかという広さだ。その空間は清明節にもなると親族が集まって先祖供養の宴を開く場所でもある。亀甲とその入り口を眺めていると左右対称の流線型をした造形のなかに、死んだ人が母体に帰るように葬られ安眠している様子が実感されてくる。死んだらお母さんの子宮に帰っていくという死生観は、各種宗教儀式や観念を超越して分かり易く、人間にとって根源的に受け入れ易い感覚だ。そして、その後も行く先々で亀甲墓の威風堂々とした存在感に圧倒され続けた。


夢中になって墓めぐりをしているうちに周囲が暗くなってきた。琉球大学の学食に紛れ込んでカキ氷を食べ、夜の嘉手納基地を道の駅の屋上から眺め、国道58号線沿いのレストランでステーキを食べてもなお、まだまだ他の亀甲墓を見たいという欲求は治まらなかった。ただ、夜の墓はさすがに怖いだろうと考え実現できなかったのだが。

海の見える最近の霊園。小型化して横穴墳墓ではなくなった墓が並ぶ(2011年7月)

翌日、講演会で石材業の社長さんにお会いした。職業柄、墓の移設などを請け負うこともあるらしく、石室からは乾隆時代(清国の元号)の骨壷が出てくるという話を聞いた。優に200数十年以上も前の先祖の骨である。沖縄を除く日本の各地でも先祖崇拝はあるだろうが、墓の中に200数十年も遡る祖先が眠っているだろうか?位牌にしても祖父か曾祖父くらいまでの先祖の名前があるだけで、祖霊全般を具体的な対象として崇拝する感覚は沖縄に比べはるかに薄いように感じる。

さて、講演会の主催はジェトロ沖縄であるが、共催機関として「沖縄新華僑華人総会」などが名を連ねた。沖縄の産業界、経済界での華人華僑の存在の大きさに改めて驚いた。数百年前の琉球王国は中国と東南アジア諸国との貿易で繁栄した。フィリピンの呂宋(ルソン島)や安南(ベトナム北部と中部地域)、シャム(タイ)などと交易を行い、香辛料、硫黄、螺鈿細工などを中国へ進貢し、その何十倍もの物品を下賜された。琉球からの進貢船の使節は中国の玄関口であった福州や泉州にある琉球館に居留した。一方、航海技術、造船といった高度な技術をもった中国人が琉球に送られ(久米三六姓)、琉球国の要職に就くなどして施政を任される人材もあったと聞く。このように琉球は中国との密接濃厚な関係を築いていたのだ。先祖の骨壷に清の元号が刻まれているということも歴史を遡れば合点がいく。


那覇にある福州苑(2012年11月)

今回の講演会では福岡から中国総領事が講演者として招かれていた。セミナーを前に総領事と一緒に県知事と那覇市長を表敬訪問した。福建省と沖縄県、那覇市と福州市が姉妹都市となっており、現在でも沖縄と福建の交流は盛んな様子だ。那覇市長は福州市を訪れ、琉球館と琉球人の墓を参拝したことがあるという。市長は、「現在まで琉球館やその所蔵資料、墓を守ってくれていることに感謝したい」と言った。これを聞き、何とも自分の無知さ加減に慌てた。沖縄と中国の交流の歴史のまさに起点となる福州市に行ったことは何度かあるのに、肝心の琉球国との交流の痕跡を気にしたことがなかった。翌朝、那覇のホテルを出て国際通り近くにある福州園を訪れた。昔、久米三六姓の居住した地域に建てられた新しい(20年くらい前)中国福建様式の庭園施設である。福州園でぼんやりと時間を過ごしながら、次なる墓めぐりを考えた。福州市に眠る琉球人の墓をおいてほかにはないと思いが至った。

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