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なぜ学の旅 20年ぶりのカンボジア
(2012年1月に書いた未発表原稿を再編したものです)
2012年1月、中国の広東省に駐在していた私は旧正月休暇を利用してカンボジアを訪問した。実はこれだけ東南アジアに関わり続けてきたにも関わらず、カンボジアに足を踏み入れるのは1991年の夏に初めて訪れて以来2度目であった。1991年の夏はカンボジア和平のためのパリ協定締結前であり、ヘンサムリン政権と三派連合が内戦を展開していた時期であった。大学4年生の私は何でも見てやろうという功名心から、バンコクで知り合った日本語を話すおじさんが「隣人にタイ海軍将校の秘書がいてカンボジアに行けるから行こう」と誘われ、軽率にもホイホイとついて行ったのであった。
バンコクから陸路、パタヤ、チャンタブリー、トラートを経由し車で行けるところまで行った後、徒歩で熱帯の植生が生い茂る林道を歩いて海岸線を目指した。途中、国境ゲートを抜けたが、監視にあたっているのはタイ軍兵士だけでカンボジア領内には係官や軍人含め人が全くいなかった。海軍将校秘書のおじさんと一緒なので顔パスでカンボジア側のコッコンに入境した。とはいっても、浜辺が延々と続く海岸であり、陸側にはマングローブ林や熱帯雨林のジャングルが広がっているだけであった。海辺の波打ち際を2kmほど歩いた。カンボジア側はポルポト派のゲリラ化した残党や敗走兵もいるとの話だし、少し中に入ればそこは地雷原だという。途中、尿意を催したが、将校秘書は厳しい顔で「水際から離れたら危ないからここでしなさい」と波打ち際から海に向かってするように勧めた。
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しばらく行くと小さな水路の河口があった。そこにいた漁民と交渉し小舟をチャーターした。海から川をさかのぼっていくと大きな川(メテウク(Meteuk)川)に出た。この川の対岸に密輸品マーケットの町コッコンがあった。「ウィスキーやタバコ、香水などが安く手に入るんだ」と将校秘書は嬉々として大量の物品を購入していた。タイに持ち帰って売るのだという。2時間くらいコッコンに滞在した私たちは再び来たルートを辿ってタイへと戻ったのだった。
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今、思い出しても当時の自分の軽率な行動にゾっとする。功名心猛々しい若気の至りとは言え、時を経るにつれ、やはりあのような危ない行動をとった自分を恥じる気持ちは強くなり、むしろこの時のカンボジア紀行はいつの間にか自分のなかでは嫌悪体験として刻まれたのであった。この旅以来、カンボジアは私にとって近寄り難い国となり、率先して足を運ぼうと思える国ではなくなっていたのである。
それでも、20年を経て、2012年にようやく「行ってみるか」という気持ちになった。嫌悪体験を最新の体験で上書きしなければという思いが強かった。広州からLCC(格安航空会社)を乗り継いでカンボジアのシェムリアップに降り立ったのであった。
トンレサップ湖のベトナム人
アンコールワットを訪ねるのは今回(2012年1月)が初めてだ。遺跡見学を半日で済ませ、タイとの国境があるポイペトやトンレサップ湖の水上村を訪ねることに多くの時間を費やした。トンレサップ湖は雨季になると増水したメコン川が逆流するので水位が10m近く上昇するという。おかげで川から魚やエビもやってくるから湖は豊かな漁場となる。湖畔に浮きのついた小屋を建て、水位の変化に合わせて上下に浮沈しながら生きる漁民の多くはベトナム人である。今は乾季だから湖底が露わになっていたが、そこにはベトナム人漁民の墓地もある。コンクリートで固めた立派な墓地だが雨季には湖底に沈む。死んでもなお湖から離れることができない宿命なのだ。難民や自発的な移民としてのベトナム人たちは、耕作地もなく、市民権もなく、定職にも就けない。一般的にクメール人は墓地をもたないため、墓に対する理解もないであろう。結局、社会の底辺にいるベトナム人移民は定住地も持てず、墓でさえも開発余地のない湖底に建立するしかないのである。こうしたベトナム人の水上生活の風景は一般の外国人にとって慈悲を誘うようだ。でも私などはベトナムのメコンデルタの風景、ハロン湾の水上生活者の風景と大差ないと感じたし、それほど彼らが貧しいとは思わなかった。
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トンレサップ湖畔の茶店で夕日を見ながらコーラを飲み、茶店のおばちゃんとベトナム語で話した。20年以上前に親戚と一緒にこの地に移り住んだと言うが、おばちゃんはあまり昔のことを聞かれたくない様子でそわそわしていた。10代後半と思われる髪を染めた息子が友達と一緒にバイクで帰ってきた。二言三言おばちゃんと会話を交わして、小銭をせしめてまたどこかに遊びに行ってしまった。「この放蕩息子め」と思ったが、伝統的な東南アジアの親子の様子を見たようで、ちょっと懐かしい思いがした。